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蒼い誘惑



 トイは笑った。
 
私は私にないそれが無性にちりちりして、トイを殴打する。にせものの光沢を放ちなが
ら扇みたいに広がる髪、赤く着色された水。それらはオイルの匂いのする吐息と一緒に、
私の空間を汚した。
 滑らかな曲線で壁、そして床に至る天井の照明が、白く部屋を照らす。宙に浮かぶ四角
柱の家具が、まるでテレビを観るように私たちを無関心に取り囲み、見物する。壁にはあ
ちこちにブラック・アウトしたモニター、実体のない彫像のヴィジョンが、部屋の四隅にノ
イズを走らせながら佇んでいる。腕のないヴィーナスがちらりとこちらを向くと、顎のラ
インがジジッという音と共に一瞬ぶれた。
 トイは口を押さえながら身体を起こした。銀色の髪がサイケデリックな長いローブにさ
らさらこぼれて、夕日に焼かれる海みたいに白く輝いた。三センチだけぱっくり開いた肩
の露出部分から白身魚みたいなしっとりした肌が覗き、紅い唇がこぽりと血とされている
ものを吐き出す。
「睡珠、問題点は?」
 スィシュ。掠れた発音で、トイはいった。私が何もいわずにいると、トイはライトグリ
ーンの瞳を痙攣させて、自分が床に落とした赤いオイルを指先で拭った。
「睡珠、Eメールを受信しました。読み上げますか?」
「睡珠、来客です」
「睡珠、珈琲を淹れますか」
「睡珠……」
 逃げるベッドに私が転がってからも、トイは喋り続けた。ケンケンと鳴いて、カシカシ
音を立てながら機械仕掛けの犬が私の元に走ってくる。犬は私の足に噛み付いて、コウン
と鳴き、トイの後ろに隠れてぷるぷると身体を震わせ、白目を剥いて床に排泄した。
「トイ、掃除だ」
「睡珠、了解しました。睡珠、侵入者です。この部屋まで三メートル……」
 その瞬間、ドアがぶち抜かれた。入ってきたのは、金色のヒューノオを従えた黒いコー
ト姿の男だ。
「睡珠、侵入者がこの部屋に到達しました。トンジルの尿が侵入者に付着しています」
「何?おい睡珠!トイに命令しろ、この馬鹿犬をどうにかしろって」
 お気に入りのセルリアン・ブルーのコートを翻し、男は黄色い液体がついたブーツを振
った。私は黙ってそれを見ていた。トンジルはケンケンいいながら男の周りを走り回って
いる。
「いい加減にしろよ睡珠、不貞寝はやめてさっさと起きろ!学校だろう」
 男は私を引っ張り起こして抱え上げ、洗面所に連れて行った。視界にぶらぶらと揺れる
ブルーの髪が現れる。私は洗面所で降ろされて、鏡を覗き込んだ。長いブルーの髪を垂ら
した童顔の子供が、眠そうに私を見つめている。後ろで男が歯ブラシに歯磨き粉をつけて
私に突き出した。
「ねえ、原始的だよね。こんなに人類が進化しても、歯ブラシだけは変わらないなんて。
老廃物をもっと迅速かつ容易に処理できるシステムを、先に追求するほうが時間の節約に
なったんじゃないかな」
「俺が磨いてやろうか?自分でやるのとどっちが原始的なんだ」
 眠いくせに好調に喋る私の口に歯ブラシを突っ込むと、彼は歯ブラシの柄を私に掴ませ
て洗面所を出て行った。私はもしゃもしゃと歯を磨いて顔を洗うと、てるてる輝く髪に櫛
を通した。洗面所での身支度を終えても、私はまだぼうっと鏡を見つめている。
「ラノー?おはよう、今日は六月二十七日……」
「ラノー。髪が伸びたよ。三つ編みって、どれくらい長いとできるのかな」
「ラノー、聞こえる?今日も朝が来たね。お日様はとても勤勉だ」
「ねえ、ラノー」
 私は服を脱いで服の山の中からブラウスを探す。どさどさと落ちてきた服からスカート
とブラウスを発掘すると同時に、私を洗面所に連行した男がカーテンを開けた。
「ぶつぶついってないでさっさと食べ――」
 上半身裸で服を抱えている私を見ると、彼は表情をフリーズさせたままカーテンを閉め
た。がちゃんと騒々しい音がする。
「睡珠、侵入者が気絶しました。鼻から大量の出血が見られます。駆逐してよろしいです
か?」
「トイ、承諾する」
 私は軽く答えて、ブラウスを身に付けた。





 空中放浪都市、トロヴェーゼ。先月引っ越してきたこの街に、私は早くもうんざりして
いた。何もかもが偽者のこの街では、素晴らしいとはいいがたかった前の街ですら、完璧
な楽園のように思えてくる。それは具体的にいえば、街を包む巨大なガラスに投影される
リアルな太陽、偽物なのに本物よりやっかいなペットのトンジル、毎日尋ねてくるクラス
メイトの顔も覚えられないヒューノオ。ちなみにヒューノオとは、現代では一人一台持つ
のが当たり前の機械メイドだ。私が持っているヒューノオは最近大量破棄されている旧型
で、次々とウィルスに感染している危険なタイプだ。ペットのトンジルも同じウィルスに
感染していて、私もまた、同時期に人間に流行した病気に、感染していた。
 それは引越しの理由でもあったし、両親が私からトイとトンジルを引き剥がさなかった
理由でもあった。
 私はその理由について……私に宿ったウィルスに、むしろ私に宿った状態に対して感情
を持たなかった。
ラノーは死んだ。
死んだのだ。
以来私は感染した。不治の病に……無感動という不治の病に。
私はいつも通り引っ越してきて以来何かと私の世話を焼くクラスメイトの車に乗り込み、
トイを従え、学校に向かう。ひらひら踊る金色の髪をした彼は俺のハンドル捌きを見ろと
いわんばかりに、空を駆け回る車をびゅんびゅん飛ばした。私は超強化ガラスに守られた
車内から外を見る。どの建物も人も、空中を魚みたいに泳いでいた。ここトロヴェーゼで
は魚も動物も空中を泳ぐ。生きているもの総てが空中を泳ぐ。生きていないものはただた
だ漂って、私が知らない場所に流されていく。
“地に根を下ろしたければ、可能性を限りたければ、足を絶つだけでいいのにな”
 やって見せてよ。私の前で、やって見せて。ここに沈んだまま……私は朽ちていきた
いの。ラノーの言葉は私を侵食する。ゆっくりと、ゆっくりとだ。
「ねぇ、フィード」
 私は隣の男に声をかけた。時計と前方に視線を交互に送っていた彼は、ちらりとこちら
を向いて、また前方を向いた。自動操縦だというのに、彼……フィードは、頑としてハン
ドルから手を離さない。
「ここでは飛ばないためにはどうしたらいいの?何もかもが浮かんでるわ。家が流されな
いためにはどうしたらいい?」
「遅刻しそうなときに悠長な……どうして流されたくないんだ?固定することに意味があ
るのか」
 ここの人たちはいつもそう。自分の居場所を決して固定しようとしないのだ。ラノーも
そうだった。
今日だって、学校は遥か遠くに流されてしまった。昨日は私の家の上空を漂っていたの
に、今日は車を二十分走らせてもたどり着かない。今も学校は町のどこかを漂流している
のだ。車に搭載したセンサーを駆使して、毎日、私たちは学校のありかを探している。
「不便じゃない。毎日決まった場所にないと、こうして遅刻してしまったりするわ」
「今日遅刻するのは、君がぐずぐずしていたからだぜ。それに、これでも一番近い学校に
向かっているんだ。お、見えてきた」
 学校は毎日ある場所が違うので、この町に幾つかある学校のうち、私たちはその日一番
近い学校に通うのである。どうせ衛星通信でモニター越しに授業を受けるのだから、本当
は学校に通う必要すらない。しかし通学制度はなくならなかった。コミュニケーション不
全で家に引きこもる者が一時期爆発的に増えたため、文部省はいじめ問題のために一時見
直しかけていた通学制度を、国民の反対を押し切り変更しなかったのだ。
 しかし、コミュニケーション不全の子供たちはなくならなかった。原因が、子供が一箇
所に集まる通学制度にあるのではないと大人たちが気付いた頃には、もう何もかもが遅か
った。家で通信教育を受けられる制度を施行させるため、亀より愚鈍な政府は意見を一致
させようと現在混乱を極めている。今の法のままでは全体の約六割が成人した時点で義務
教育を終了していないことになるのだ。今子供のうちで社会に出ることができる可能性が
あるのは僅かに三割といわれている。年々増える自殺率で残りのうちの一割の生存率すら、
絶望的なのだ。
「えっと、お前の今日の教室は……あれ、トイは乗ってこなかったのか?」
 フィードが車内を見回す。
「さあね。旧式はこれだから困るわ」
「……知らないか?ソミン」
 後部座席のヒューノオに、フィードは声をかける。ソミンはクリーム色のやさしい目を
細めた。
「トランクに、乗ってる……」
「トランク?」
 ソミンが頷いた。
「真っ暗なところでがたがたするのが、好きって……」
「……」
 フィードは呆れた顔で車を学校に乗り入れた。さすがに車は飛ばされたら困るのだろう、
ちゃんと金属紐を車にとりつけている。車が固定されたことを示す黄色いランプがちかん、
と光ると、車のトランクからぼろりとトイが落ちてきた。長いローブがふわっと浮いて、
こちらに漂ってくる。私は未成年用のIDカードを入れた学校指定のケースを手繰り寄せ
ると、ポケットに突っ込んだ。今日は登録更新の日だ。本人確認は五年おきにあって、十
五歳の私は今日、本人確認をすれば成人するまでカードを更新しなくていい。
 私たち四人は、白い壁が永遠と続く廊下で二手に別れた。フィードと私は同級生だが、
日によって受ける授業が違うのである。実際同級生とは名ばかりで、適正と能力に応じて
別の学習プログラムが組まれている私たちは、同じ授業を受けることはまずないのだ。私
はフィードが調べてくれた今日の教室に入り、自分の番号が表示されたモニターの前に座
り、イヤホンをつける。
 赤いスイッチをかちり。トイが興味深そうに、私の肩に手を置いてモニターを覗き込む。
無表情なまま、しかし、クリスタルの目がきらきらと好奇心に輝くのを、私はうんざりし
た思いで横目で見た。
 授業の流れは決まっている。最初の二、三十分は説明を聞くことに費やし、残りの三十
分を問題を解くことに費やす。モニターの向こうで喋る、私に割り当てられた女性がCG
なのか実在の女性なのか、私には判別できない。トイに聞いたら分かるのだろうが、真実
は私にとって瑣末なことだった。勉強を教える人が笑って怒って、それが人工知能による
それであっても、人間の感情のそれであっても、私はどちらでもかまわない。実際見てい
る限りでは、両者に大した違いはない。
 説明を聞き終わって脇のプリンタからハンドアウトが吐き出されるのを、トイはじっと
見つめる。
「睡珠、どうしてメールでやらないのですか。今のハンドアウトで、貴重な資源が無駄に
なりました」
「学校の方針だよ。手を使わせるのが重要だと考えている」
「睡珠、キーボードを叩くのも、手を使います」
「きっと色々な作業をさせたいんだ」
 トイはしばらく静止した。トイの頭からかりかりかり……と音がする。いつだったか骨
董品のパソコンにデータを保存するとき、聞いた音だ。
「睡珠、理解しました。六角形の鉛筆で文字を書く、ちびた消しゴムで文字を消す、シャ
ープペンシルの芯をいちいち出す……キーボードより、いらいらするのが重要な経験なの
ですね」
「トイ……お前ヒューノオやめたほうがいいんじゃないの」
「睡珠、理解に齟齬がありましたか。今のやりとりをデリートしますか?」
『ナンバー六千九百、睡珠。今のヒューノオとの会話で約一分三十秒を無駄にしました。
授業時間を一分三十秒、延長します』
 ピコーン、と機械音がした。私はトイの後頭部をひっぱたいて、プリントに向かった。
あろうことか今日モニターの前に用意されていた筆記用具は石ころみたいにごろごろした
小さな消しゴムと、先が丸くなった鉛筆だった。いらいらした。




 昼休み、私はフィードと待ち合わせた中庭に向かった。足首まであるような長い金髪を
垂らしたソミンが、ベンチに腰掛けたフィードの前に立っている。私の存在を察知したソ
ミンが、私を振り返ってにっこりと登録された笑みを浮かべた。ソミンは今朝とは違うカ
ッティングの白いスーツのようなものを着ていた。襟が尖ったジャケットに、チューリッ
プを逆さにしたみたいなロングスカート、それにヒールが二本ついたブーツを履いている。
 ちなみにソミンは女性型のヒューノオだ。ヒューノオには男性型と無性型と女性型があ
り、人格にもタイプがあるものの、性別として分かれてはいない。ヒューノオをデザイン
する際には幾つかの要素をチョイスするのだが、起動してからの経験でそれは多かれ少な
かれ変わってしまう。ちなみに環境による影響レベルも操作でき、ソミンはほとんど周り
からの影響を受けない設定で稼動していた。彼女は出会った一月前から何も変わらない。
きっと稼動してから変わっていないのだろう。
「いいだろう、これ、さっきのデザインの授業で作ったんだ」
 フィードがにやっと笑って、座ったままソミンの腰の辺りをぽん、と叩いた。フィード
の適正は銀行員だが、本人の希望は服飾デザイナーだ。
「うん、よく似合う。今度トイの服もデザインしてよ」
「何でトイ?お前の服はデザインさせてくれないのか」
「生憎だけど、私は決まった服しか着ないの」
 私の頭の先からつま先までにさらりと視線を走らせ、フィードがふうん、といった。
「いつも着ているその白と水色の服か?何かこだわりがあるのか」
「放っておいてよ。私、もういかないと」
 私は登録更新のために本館に向かった。午後一杯それに費やされた。カードに本人の五
年前との身体的データの変動を書き込むだけなのに、私は妙に他の人より時間を食った。





 翌日、私はオレンジ色の朝食を突きながらトイのおしゃべりを聞いていた。トイはさら
さらした質感のシルバーホワイトの長い上着を着てしげしげと鏡を見つめ、光沢のある黒
い靴をかつかつ鳴らした。
「睡珠……似合いますか」
「似合うよ」
 私は面倒で、うわのそらで呟いた。頭上ではくるくると照明が旋回している。足元でト
ンジルが欠伸をして、ぺたっと顎を床につけた。休日の気だるさがどろりと身体の中で渦
巻いていて、水銀みたいな目を瞬かせるトイがうっとおしかった。
「睡珠、この紐はなんでしょう」
 トイはコルセットの紐を摘んだ。腹の前でくくるタイプで、トイは不思議そうに縫い跡
みたいな編み上げのコルセットを見つめている。フィードは何を考えているのだ。ヒュー
ノオに補正下着をつけるなんて。
「ウエストを締めるためのものだよ。それで調節するんだ」
「睡珠、どうしてウエストを締めるのです?」
「そうするときれいに見えるからだよ」
「きれい……人間によって定義の違う、多くの人が目指す到達点ですね。いえ、継続した
い状態……」
 トイはぶつぶつ呟いて、私の前に座った。おしゃべりに夢中になっているときのトイは、
人間が話そうとする体勢を真似る。人間みたいに。
「睡珠は何をきれいだと思いますか」
「とくにないね。きれいに、私は価値を見出さない」
「睡珠、そうなのですか。女性はきれいに固執するというデータの、例外ですね。では、
フィードのきれいの基準は、引き締められたウエストですか」
「きれいというより、フェティシズムの一種じゃないかな」
「睡珠、質問があります。フィードのフェティシズムの対象は、コルセットそのものです
か、コルセットによって引き締められたウエストですか、それともコルセットを着用した
状態のウエスト及びコルセットですか」
「さあ。それはフィードにしか分からない」
「睡珠、今度訊いてみます」
「うん。それとそのコルセットでウエストは締まっている?」
「睡珠、答えはNOです。着用前と比べると、通常の下着同様の僅かな皮膚の陥没が見ら
れますが、客観的に見て分かるほどのウエストの痩身効果はありません」
「だよね。じゃあやっぱり飾りか」
「睡珠、これが装身具だという意味ですか」
「うん。ぴったりの表現だ」
「睡珠、ソミンの昨日のスーツの下にも、これと同じような形状のコルセットを確認でき
ました」
「フィードのコルセットフェティシズム疑惑浮上だね」
私はほとんど食べ残したオレンジ色のゲル食を四角いダストシュートに落とした。トイ
がそれを見て首を傾げる。
「睡珠、何か温かいものを作りましょうか」
「いい」
 トイは白っぽい睫を瞬かせ、硬質なコルセットを撫でた。トイは最近、無駄な仕草が増
えてきた。おそらく無意識なのだ。無意識なまま、癖という人間特有の行動を踏襲してい
る。故障だろうか。それとも……。
 私はとろっとした質感の、ソフトコンタクトレンズみたいな青いフィットスーツを着用
し、コルセットのことでまだぶつぶついっているトイを連れて外に出た。トンジルがケン
ケンいってついてくる。私は自転車にまたがった。自転車、といっても、人力でこぐもの
ではなく、ほぼ限りなくバイクに近いもので、透明なぷるんとしたしゃぼん玉みたいな膜
に保護された、自転車の形をしたものだ。前後の車輪やハンドルに至る支柱がとても太く、
何本かケーブルが飛び出している。私がまたがってペダルを漕ぐと、自転車は流しそうめ
んみたいにひゅん、と空に飛び出した。放っておいてもトイは搭載された浮遊機能で追っ
てくる。それ自体に機能性はないものの天使に翼というオプションは、新しい衣装によく
似合った。
「睡珠。今日の外出先を、入力してください」
「山に行く」
「睡珠、登録、しました……」
 自転車は突如意思を持って、私の足を乗せたままペダルがぐんぐん回りだした。触って
いるだけのハンドルがぐいっと横を向いたかと思うと、アイヴォリーとアクアマリンで構
成された町並みにぽこんと突き出したオリーブの山に、磁石みたいに引き寄せられていっ
た。丸く保護された膜の外で、色彩が混ざり合いながら後方に飛び去っていく。そのスピ
ードは加速しながら、しかし、私の皮膚には一切の風の刺激がなかった。隣を雪の精霊み
たいなトイが、北風みたいに音を立てて飛んでいく。薄く配管が透ける白皙、光沢と影の
間で迷って揺れるローブのような服、髪と同化して、それらは銀から白に至るグラデーシ
ョン。銀色の流動物みたいに、トイはオリーブの山に向かってまっすぐに流れ落ちていっ
た。
 山、と表現したものの、それの表面はつるりとしてゼリーのよう。よく見ると半透明で、
中がほんのり透けて見える。ミルフィーユみたいに何層にも別れた内部で、ちょろちょろ
と蟻みたいなものが動き回っている。
 ここは山と呼ばれる会社だ。正式名称は違うのだろうが、山の形をしているので、この
国では、この会社は山と呼ばれている。そしてそれ以外の呼び名を、私は聞いたことがな
い。この国に住む約六割がこの会社で働いており、私の両親もそうなのだ。
 ぎりぎりまで膨張したこのコングロマリットは、国のあちこちに“山”を作り、既に退
廃した自然の巨大なレプリカを、自社自身でもって再現して見せた。自然と呼ばれる何百
年も前に消滅した資源は、当時は人類が生きていくために不可欠のものとして、保護され
ていたらしい。今は映像を通してでしか見ることのない動物というものも、資源だったの
だろうか……。当時自然が人類に与えたもの総てを、今は人間が自給自足でまかなってい
る。燃料は空気に変わって、空気を作る植物は、またそれに代わるものが、発明された。
けれどそれを見たわけじゃないから、詳しいことはわからない。もしかしたら発明じゃな
いのかも?私は夢想する。灰色で目が大きい心優しい宇宙人が、宇宙船から燃料を分けて
くれたり、ピンク色のぐねぐねした生物が、地球に友好条約を結びに来たりするのを……。
その空想をトイに話したことがあったが、
「睡珠、事実と齟齬があります」
 なんて、いわれてしまった。とにかく、地球人は荒廃した地球を改造して未だに、地球
に住み続けている。トロヴェーゼは浮いているが……一応大気圏内だ。宇宙進出は、なら
なかったのである。何故この惑星に固執する?空気も緑も失って尚、この惑星にしかない
何かがあるというのか……。
「睡珠、到着しました」
 前髪が全部後ろに流されたトイが、無表情に私を見る。いつの間にか駐輪所の前に立っ
ていた。私が自転車から降りると、ぺしゃっと膜が割れて、自転車が黒い穴に吸い込まれ
ていく。私はトイの髪を指差した。
「オールバックだね」
「睡珠、オールバックとはなんですか」
「髪を全部後ろにやるヘアスタイルさ」
 トイの頭からかりかり音がした。さらさらした髪が、ぱらぱらと前に零れてくる。
「睡珠にとって、それはすてきですか」
「似合えばすてきだと思うよ」
「睡珠、似合いますか?」
 トイはさっきと同じ問いかけをした。しかしもう既にトイはオールバックではない。
「まあままだね」
「睡珠、ではまあまあすてきですね」
 私は適当にうんうんと頷いた。トイは少しだけ口角を持ち上げた。まただ。またトイは
私の神経を逆なでする。
「笑うな」
 吹き抜けのロビーで、私はいった。閑散としていて、ベージュを基調にした室内は、う
つろに暖かい。こんなに広いのに、フロントには二台のヒューノオがにこにこして突っ立
っているだけで、あとは私たちしかいない。ふっかりしたレグホーンの絨毯が、靴にしっ
とりと絡み付いている。
「ぽんこつめ。誰がお前にそんなことを命令した?笑えといったのか。泣けといったのか。
スプラップになりたいか?」
 トイは繊手をゆっくりと両頬に当て、水銀のような瞳を瞬かせた。
「睡珠、私は笑ったのですか……」
「笑った」
 また無表情になって、紅い唇に触れた。
「睡珠、申し訳ありませんでした」
 トイは咎められたことよりも、自分が笑ったことのほうがショックなようだった。顔の
下半分に触れながら、表情筋の動きを確かめている。私はフロントのヒューノオに声をか
けた。
「睡珠です。両親に繋いでください」
「了解しました。少々お待ち下さい」
 簡略化されたやり取りの後十分ほどして、母がロビーに現れた。両親は山に暮らしてい
るので、家には帰ってこない。どこでも大抵そうだ。何故なら両親が暮らしている住居の
居間と私の自宅の居間が常にTV電話で繋がっていて、同居していても別居していても大
して違いはないのである。
 では何故今日彼らに会いに来たかというと、それは、私を呼び出した彼らにしか説明す
ることはできない。
「会いたかったわ」
「昨日会ったよ」
 母は私をハグして満面の笑みを浮かべた。母はたびたびこうして接触したがる。そして
昨日TV電話で話したことと同じ内容を喋り、絶えず私の腕をぽんぽんと叩き、トイにな
にやらいい含め、山に消えていくのである。このゼリーみたいな山の中で娯楽も仕事も総
てが事足りて、外に出ることがない彼らを、世間では山人と呼ぶ。
「睡珠、ゼリー山人はなんといっていましたか」
「ゼリーはつけなくていいよ」
「睡珠、私はゼリーがつくと、すてきだと思います」
「……何故?」
「睡珠、ゼリーはきらきらしていて、ぷるぷるしているからです。ちなみに私は、ゼリー
は食べるより見るほうがすてきです」
「トイ、文法エラーだ。そこは好き、が適切だ」
「睡珠、好き、です」
 トイは区切って慎重にいった。トイは学習した言葉を好んで使いたがる。私は毎回それ
に付き合って、間違いを指摘したり褒めたりしなくてはならない。トイは最初からある程
度の完成された知識と人格を備えている最新タイプのソミンなどと違って、ゼロから教え
なければならないのである。今でもトイのような旧式のヒューノオは生産されていて、そ
れは用意されたステロタイプの人格ではなく、覚えさせる言葉や形成する人格の自由度が
高いという特徴のために、いつまでも需要があり続ける。つまりこれは終わらない育成シ
ュミレーション。彼らは学習し続け、常にその性格を変動させる。人のように。人のよう
に。
 そしてあの病が現れたのも、このタイプだけだ……。
「トイ、どこかで食事でもしていこう」
「睡珠。すてき、ですね」
 トイの口角が上がりかけて、しかし私がきっと睨むと、トイは不自然に口をすぼめて、
へんな顔をした。行き先を山近くのレストランに設定し、窓に海が映るモニターが設置さ
れている席をトイに予約させると、私たちは移動した。
 そのレストランはテーブルごとに景色の違うモニターが設置されていて、テーブルによ
って深海魚が蠢いていたり、草原が広がっていたり、牛がアップで映って永遠と草を食べ
続けていたりした。
 私たちは入道雲がゆっくりと流れていくのが見えるテーブルに腰を降ろした。入ってき
た人数は自動的に店に認識される。カメラで確認された私の温度から独断と偏見で適当と
店が判断した温度の水を持ってくる。私は水がぬるいといって怒り、水をトイに浴びせる。
トイがヒューノオの店員に謝って、席を変える。困ったようにトイが深海魚が覗き込んで
くる“窓”を見て、私の機嫌を伺うように、そっと、こちらに視線を走らせる。私が睨み
つけるとしょんぼりと眉毛を下げて、私が覗き込むメニューのモニターに視線を落とす。
   、楽しくありません。
<コマンド・エラー。名称の不在。>
何故。
   が不機嫌だと、嫌な気分になります。
<コマンド・エラー。名称の不在。>
 楽しいと思う必要が、君にあるの?
 いいえ、  。ですが、嫌な気分になると作業効率の低下及び事故発生率の増加が懸念
されます。
<コマンド・エラー。名称の不在。>
 誰が?
   。私が、です。
<コマンド・エラー。名称の不在。>
 それは、君の問題であって、私の問題ではないんだよ。
   。それは感情において、私が独立した、一定の責任と権利を有する。という意味で
すか。
<コマンド・エラー。名称の不在。>

<メイン・サーバーにおけるウィルスの危険を報告します。精神防衛のため、意識をシャ
ットダウンします。3・2・1……>



 俺は気が付くと、からっぽの机の前に座っていた。からっぽ、なんて表現、どっから沸
いて出た?きっとソミンなら、文法エラーなんていいながら、ビービー頭を鳴らすんだろ
う。
「お客様。メニューは何になさいますか」
 メイド姿のヒューノオが笑顔で近寄ってくる。俺はいつもの癖でどうする?ソミン。と
声をかけた。
「あれ?連れはいなかったか。ヒューノオの……」
 ソミンはいなかった。近くにはメイド姿のヒューノオ以外なにもない。客は俺しかいな
かった。
「ええ。十分以内に、一体の生体反応を有する固体と、一体の擬似生体反応を有するヒュ
ーノオの入店を確認しています。データを参照なさいますか?」
「いや、いい……」
 ソミンはどこにいったのだろう?俺はそわそわした。ソミンが傍にいないなんて――前
時代風にいうと、“携帯がない状態”ってやつだ。あいつは俺より俺のことを知っていると
いうのに。
「じゃあC級ランチをテイクアウトで……」
 そのまま店を出るのも気が引けたものの、何かその場で食べる気にはなれなかった。軽
めの昼食を包んでもらうと外に出た。ちなみに大体どこのレストランでも値段のレベルで
ランチもディナーもA級とB級とC級に別れており、Aは高級な肉を使ったステーキとか
なんとか――庶民の俺はあまり食べたことはないが、そんなもので、B級はよく分からな
い。C級はサンドイッチとかハンバーガー。俺はランチをテイクアウトするときは必ずC
級を頼む。予算の関係もあるがそれよりも、短時間で軽く食べやすいのが一番の利点だ。
俺はあまり食事に金をかけない。年齢的に当然かもしれないが、そんなものよりは最新の
ゲームだとか服のほうに金をかけたい。
 さっきのランチは中身を確かめずに買った。大体どこも一緒だからだ。俺は公園によっ
てそれを食べようと思った。ふわふわとした緑が流れていくのや、海底から見上げるよう
なゆらめく空が浮遊するのを見ていると、少し不安定な気分も落ち着いてくると同時に、
空腹感も感じ出した。なるほど。俺が意識を取り戻す前の俺は、腹が減ってあのレストラ
ンに入ったのかもしれない、と開けたてのコーラから出る白い靄みたいな考えが、ふっと
頭の奥に立ち昇った。
 この都市はまるで汚れた海みたいに色々なものが流れてくる。死んだ犬が枕元に流れて
きたあの時は夢だと分かったものの、そんなことがあっても不思議ではないと思わせる何
かが、この都市にはある。ブドウ糖みたいに蠢く滑らかな石垣から、カチカチと絶え間な
い石の囁きが漏れる自宅近くの公園。子供の頃はよくこの公園で遊んだものだ。こんな風
に石が絶えず一箇所で浮いてうろうろしているのもこの都市の特徴で、俺は子供心にもそ
んな光景が不思議で、この石垣に手を出したものだ。一度指を磨り潰されて病院に運ばれ
それ以来、流れているものには無闇に触れないようになった。指は病院で再生してもらえ
たものの、俺に生き抜ける程度の警戒心を植え付けるには、必要な出来事だったのかもし
れないと思っている。
 地面に固定されたベンチに腰掛けて昼食のパックを開けると、密封されていた容器から
ふわっと湯気が立ち昇った。さっくり焼き上げられたパンの匂い。それほど食べることが
好きではないとはいえ、出来立ての匂いには抗い難い魅力がある。
 端をぴったり閉じられたパンに齧りつくと、中からトマトととろけたチーズとふやけた
レタスがあふれ出した。顎にかかる汁を指先で拭いつつ、過剰なまでに中身の覆いサンド
イッチを胃に収めた。食べやすいとはいえない出来だが、文句をいうには旨すぎる。
 公園の水道の蛇口をひねり、手を差し出した。
 覚えのない色。
 というのは、服の袖の色が、という意味だ。俺はいつもセルリアン・ブルーのコートを着
ているのに、前に差し出した手は――意識した腕は、グリーンだった。俺は掌を検分して
袖口をいじくってみる。どうも華奢になった気がする。最近運動不足だからな――などと
呟き、まあ、誰かのコートを間違えて着てきたのかもしれない、と結論する。そうだ、そ
ういえばソミンがグリーンのコートを持っていたではないか。きっと俺は間違えて彼女の
コートを着てしまったのだ……。
 俺はしばらく立ち尽くしていた。その結論が間違っていることが理解できる程度には、
冷静だった。何故ならソミンは俺より頭一つか二つ分背が高く、その上華奢でマネキンの
ように整った体つきをしている。つまりこれが彼女のコートならば、俺には袖を通すこと
すらできないはずなのだ。全体的にゆとりのあるデザインならいざ知らず、ソミンが持っ
ているグリーンのコートは、彼女の細いウエストや腕にぴったり吸い付くようなシルエッ
トなのだ。俺に着れるはずがない……。
 動けなかった。頭痛がした。手を頭にやるのさえ億劫だったが、ずきずきするこめかみ
にほぼ無意識に手をやった。
 その時の衝撃を、嗚呼、誰にどうやって説明すればいいだろう?そんなことはできやし
ない。そんな必要はない。あんなひどい気分を誰かに味合わせてやりたいと思うほど、俺
の性根は腐っちゃいない。だがあの出来事は、そんな俺でさえ一瞬で、混乱と憎しみの鍋
に突き落とすには十分だった。
 驚くなかれ。いいや、聞いて驚け。
 俺は睡珠になっていた。
 それはもう、自分になってさえ目を奪われるような鮮やかな長いスカイブルーの髪が、
視界に入っただけで事態を把握するには必要以上ってもんだ。睡珠っていうのは俺の友人
で、最近引っ越してきた同い年の女の子だ。
 まあ今は性別なんてあまり関係ない。成人したらボディの性別を変えられるし、今“発
育”と呼ばれているものだって、年齢に応じた適度な成長を遂げるよう薬物で調整された、
ヒューノオとあまり変わらないそれだ。
 ヒューノオと違うのは脳だけ。ダウンロードされた“脳”だけだ。しかも睡珠のもって
いるトイは感情を持ち始めた新タイプのヒューノオだと聞く。否、あれはウイルスなのか。
とにかくバグって人口の感情ではなく――つまり、感情機能を搭載していないはずなのに
感情を持ち始めたのだ。一部の旧タイプのヒューノオに起こり始めた異常で、そのウイル
スの感情のリアルさは、最新ヴァージョンのソミンのそれを軽く凌駕する。
 で、とにかく俺は呆然とした。髪を見ただけで一瞬で事態を把握したのは、こんなトラ
ブルが起こり得るケースの原因は大抵決まっており、それは、本人確認のミス――すなわ
ち、IDカード更新の際、カードを間違えたということに他ならない。IDカードを更新
したあの日、車に乗せた睡珠が、間違えて車に放り込んでおいた俺のIDカードを持って
いってしまったのだ。
 更新から二日後。更新されたデータが一斉にボディに反映された。きっとそれがさっき
のレストランの、空白の瞬間――。
 俺は頭を抱えてうずくまった。なんてこった。だからいわんこっちゃない。カードは本
人の“脳”に、焼き付けておくべきだったんだ。誰だ。個人照合更新の効率化のために身
体から個人データを切り離すなんていい出した奴は。
 憎たらしい某政治家の顔を、俺は思い浮かべた。あのちっぽけなカードは、最後の確か
なアイディンティティだったはずなのに。そんな言葉これまでろくに考えなかったにも拘
わらず、俺は人権から政治に至るまで思いつくままひととおり毒づいて、俺が睡珠になっ
た責任について心の中で言及した。何故ならばこのシステムは絶対で、未成年は五年の歳
月を経るまではいかなる変更の例外も認めないのだ。絶対的なセキュリュティのもと、更
新されたデータは保護され続ける。クラッカーから身を守るためだ。おそらく俺たちのよ
うなとんまな奴は、これまでいなかったからこのシステムが問題意識にならなかったので
はないだろうか。とにかく俺の世代は、この種のセキュリィティの防衛理念を叩き込まれ
ている。こんなことになっても今のシステムを解除することなど危険で決して出来ないと
考えるところが、俺たちが受けた教育の現われだなと、頭の隅で奇妙に冷静に考える。
 それはきっと、もうどうしようもないことなんだと、既に分かりかけているからなんだ
ろう。
 大丈夫。他人が俺を俺だと認めなくなっても、例え今までのデータを総て失くしたとし
ても。
 俺が俺であることをやめさせることなんて、誰にも出来やしない。




 着慣れないネグリジェを着て花の香りに包まれて眠るなんて、とてもじゃないができな
い。
 今度、服を揃えに行こう。俺は全裸で歯を磨きながら思った。最初は慣れなかった。家
中の鏡を叩き割ったこともあった。おまけにこの女ときたら、服なんて二、三着しか持っ
ていないではないか。いくら空調整備が行き届いているからといって、あまりに貧弱なヴ
ァリェーション。
 このさいだからこの身体で遊んでみようと思った。はっとするような、夏の噴水みたい
なスカイブルーの髪に、純白のワンピースがきっと似合う。角度と光量で鮮やかに色合い
の変化する、海のように多感な美貌の蒼に。
俺は別の意味ではっとした。五年後、俺は俺に戻るのだ。へんな趣味がついたらまずい
ぞ。否、その気になったら別の身体にもできるのだっけ……。でも、俺は元々服をデザイ
ンする趣味があるのだし、それとこれとは別だよな。
俺は苦心して自分を納得させると、さっそく睡珠がいつも着ている服を手に取った。上
と下が分かれていると見せかけて、実は繋がっているせこい服だ。俺はこういうものはワ
ンピースとは呼びたくない。だが、別のものは着るに耐えないデザインだ。きっと睡珠も、
本音ではこれが一番ましだと思って、毎日のように着ていたのだろう。
しかし外に出ようとして、はたと気付いた。トイはどこだ?トンジルもいない。彼らは、
俺が俺だとわかるだろうか。
頭が痛んだ。廊下でうずくまって収まるのを待つ。しばらくそのままで、頭痛が治まる
頃には、俺はトイのことをそれ以上考えることなく外に出た。それは昔指を磨り潰された
のに似た感覚だった。どこが、といわれれば口ごもる、けれど確実な確信。



 浮遊する球体。それらは虹色のグラデーションに身体を染めながら、右に左に彷徨う。
漂流の小宇宙。ひとつひとつに完結したひとつの世界。それはまるで物語のようだと、チ
ープな感傷にひたってみる。シャボン玉、真珠、ガラス玉……錯綜する比喩の迷宮。俺は
妙に広い風呂場に浮かぶ球体を覗き込んで、それぞれの建築物を覗き込む。骨組みだけの
人間が羽のように軽やかに空中を舞い、やがて墜落していく。俺は湯船に身を浸して、そ
れらに触れないように用心深くしながら、中で蠢く存在を、ペットのように慈しむ。泡風
呂に頸まで浸かり、蒼い髪が光ファイバーのようにゆらめくのを眺め、俺はざっと立ち上
がる。その拍子に、濡れた手が球体の一つに触れた。
 <アクセス承認>
 <ナンバー########******、移行します>
 その瞬間、曇った生ぬるい空気と共に意識が剥ぎ取られた。無数の破片になって、球体
に剥奪されていく。拍動が聖歌のように荘厳に内部に鳴り、急速に転送されてゆく。
 <ダウンロード開始>
 <20%……40%……80%>
 
 
 気が付けばそこは白亜。
 純白のアンティーク・チェアに腰掛け、ベーシック・スタイルの白いワンピースを身に
付けている。転移する前、裸だったからだろう。俺は無感動に自分を見下ろして、そう考
える。
 風呂に浮いていたのはショートカット・キーだ。触れればブックマークされた場所に、
意識が転移される。俺は何故風呂にショートカットキーを浮かべていたのかを考える。た
しか泡風呂だから、泡みたいな外観のあれらを浮かべたくなったのだ……そう、思い出す。
実際にはそう考えなかったかもしれない。夢のように……とりとめもない、理由だった、
はずだから。
 そしてここはショッピングモール。鳥や動物に姿を変えた人もいて、あまり人間の姿は
見られない。壁もフロアもすべてが白く、自己主張で見苦しい看板というのは見当たらな
い。どれも質素に、白い看板に店名を書いて掲げている。
 フロアごとに浮遊する店。ショッピングモールは日によって店が違う。ふわふわ漂って
きて、ふわふわ去っていく。一時間だったり、一月だったり、いろいろだ。彼らがコント
ロールしているのかしていないのかすら、よくわからない。店自体が無口な売り子のよう
にふわふわ漂いながら、やがて泡のように、ぱちん、と消えてしまう。ちょっと惜しかっ
たような、妙な気分にさせるのがさすが、などと意味もなく思ってみる。BGMにはのパ
イプオルガンが荘厳に流れていた。バッハかな。そう、とりとめもなく考える。
 ここに来ると、毎回別の店に出逢う。見たことも聞いたこともない店を見つけたときに
は、とびきりの秘密を手に入れたみたいな、誇らしいような気分になる。
 俺はお飾りのエスカレーターの周りをくるくる旋回しながら、遥か上空に木の葉みたい
に舞い上がった。空を映す天井に、叩き落されるまで上り詰めたい気分だ。
 最上階を示す赤いフロア。くるんと回転、着地。最上階から順番に下って、そのまま外
に出るのがお決まりのコースだ。睡珠と出掛けるときにも、こんなコースで、俺たちは建
物の中を見て回る。
 赤い廊下を歩きながら、連続する黒いモニターを眺めた。震える半壊のアルファベット。
揺らめく髪はメタルグリーン。ほの白く発光する繊手が、ステッキみたいな湾曲した棒を
掲げている。俺はモニターの見知らぬ人物を眺めた。この建物の最上階は職業級金銭的利
益の不足者、及び職業申告のない芸術的活動を目的とする個人及び団体の、自己PRブー
ス――つまりは、色々なアマチュアの活動を発表する場なのだ。俺は手を伸ばして、画面
からふわりと浮き出したアルファベットを指先ではじく。それはキン、と軽い音を立てて
あちこちにぶつかり、再びもとの位置に静止した。
 色々な色彩の中で微笑む、顔、顔、顔……指標のような、まるで記号のような――それ
らを見、俺は最後のモニターの前で停止した。
 それは俺がネット販売したコスチュームだった。誰かは分からないが――販売するとき
には簡単なプロフィールを交換するのだが、後から誰かに譲られたのかもしれなかった。
それは、鋭いカッティングのパンツスーツ。睡珠をイメージした、目の醒めるような、蒼。
着ているのは銀髪の青年で、金色の瞳を、無表情にこちらに向けていた。睡蓮を思わせる
眠たげな白に、演出の麝香が香った気がした。ミュージシャンを目指すアマチュアのブー
ス。
「リィ……リィ・ソーア」
 俺はモニターの隅に印字された文字を呼んだ。その途端、リィ・ソーアの姿は消え、別
のアマチュア情報が大写しにされた。金髪のストリップダンサーのものらしい。人工的な
えげつない豊満さが、褐色の肌に充溢していた。
 階下に降り、俺はぶらぶらと女物の服屋を覗いた。女装の趣味はないが、女物の服も男
物の服もあまり区別して作っていないので、色々なデザインを見て勉強しておきたかった。
だが睡珠になってしまう前は勿論、女物の店には入りづらかった。アバターを違う性別に
変えることには気が進まなかった俺は、ネカマになるか我慢するかという問題で、常に頭
を悩ませていた。3次元のヴァーチャル・リアリティではなくパソコンの前で鑑賞する二
次元なら、他のユーザーと関わる機会がないのだが、やはり実際に触れたりできるこちら
のほうが、勉強になるのである。残念ながらプライベートな3次元空間ショッピングとい
うのは、未だ富裕層の娯楽なのだ。
 俺はお気に入りのブランドを一通り眺め、階下のカフェに腰を落ち着けた。オンライン
での有機物の摂取は、レシピがボディのある自宅に転送され、そこで同じ物が作られ、同
じタイムラグを置き、同じ温度に調節されたのち、咀嚼と同じ数粉砕されたものを、チュ
ーブで流動される、という、何か妙な形式で再現されている。
 注文したコーヒーを飲みながら俺は思い出した。昔読んだ記事。こちらの行動と向こう
の再現システムに齟齬があり、コーヒーをふつうに一杯飲み干したはずなのに、本体のほ
うは喉に熱湯を流し込まれて重症を負っていたというものだ。あの記事を読んでしばらく、
外でコーヒーを飲むことが出来なかった。俺は苦笑いして、この話をまだ睡珠にしていな
かったな、と思った。でも、今は俺が睡珠だ。彼女も聞いているに、違いない。きっと彼
女はいうだろう。呆れた顔で、「馬鹿らしい」。その白けた表情が、何故か無性に懐かしか
った。
 その日は深いスリットが入ったロングスカートと、ハーフパンツとTシャツを買って帰
った。常にワンピースというのもそわそわするし、元の俺が着ていたような落ち着ける服
が欲しかった。
 自宅に帰ると、俺はTシャツにハーフパンツという格好で、パソコンにログインした。
RPG……睡珠に初めて出逢ったのは、実はこの場所だった。彼女が越してきて、学食で時
間を潰す俺の隣に座り、にっこりして、はじめまして、といった、きらめく人工の光の中
の彼女。実のところそれは、リアルとヴァーチャルの、限りなくないに等しい彼女なりの
区切りだったのだと、今では思う。
 彼女は知っていた。俺が――俺が彼女と関わり続けていた、“貝”だと――。

シェル>はじめまして ひさしぶり
ゲスト>どっちだよ。あんたがバグ?
シェル>ぼくは シェル
ゲスト>答えろって。誰が動かしてんの
シェル>よろしくね

 相手は落ちた。鬱蒼と草の生い茂るジャングルの中、巨大な芋虫の姿が掻き消えた。そ
こは終わりのない迷宮。実態と虚構の錯綜する空間。端末に手を触れ、一瞬、世界が暗黒
に包まれ、火花が散るのを遠くに感じると、俺はモニター越しに見ていた世界の中にいた。
 舞い上がる花びら。頬を撫でる風と湿った花の断片の感触。急速に構築される視界に迷
走するポリゴンが漂った。ブーツに触れるさくっとした葉の感触。濃厚な緑の匂いが鼻腔
の奥に突き抜けた。

“きれいだね。きれいだね。まるで生きていないみたい……”

 地面を蹴って飛び上がる。ふっと喪失の重力。反転する視界に、贋物の空が滲んでぶれ
る。機械仕掛けの……。

“絶たれているの。傷といたみのタイムラグ。もう血は追いつけない”

 頭から落ちていく。まどろむような永遠の瞬間は、死の模倣のよう。
 俺はひとつひとつ睡珠の言葉を反芻する。今はもう失われた、俺の中に残る、曖昧な記
憶。
 ゆっくりと地面に落下した。ふわりと空気を含みながら、軽い羽のように着地する。機
械仕掛けの空が……無表情に俺を見下ろしていた。きっとフィクション。この場であった
彼女との総てが、虚構の記憶……。
「きれいだな。まるで本当じゃないように」
“きれいだね。まるで他人に涙するように”
 





 さて、どうする?
 俺は自宅の居間で考えた。視界の隅で揺れる蒼い髪が、主の意識が戻るのを心待ちにし
ているように思えた。手持ちのヒューノオもおらず、どうやって行動を起こそう。携帯も
パソコンもない――前時代風にいうと、そんな感じ。
 というわけで俺は睡珠の持ち物を探ることにした。本当は睡珠のヒューノオ……トイを
調べた方がてっとり早いのだが。そうすればもしかしたら、この状況の抜け道が見付かる
かもしれない。
 睡珠の部屋はいい匂いがした。年頃の分泌物の匂いともいえず、かといって香水か何か
の匂いともいえない、そこはかとなく甘ったるい匂い。勿論気はひけた。女の子の部屋を
漁るなんて男の風上にも置けない。
 だが事態は緊急を要する。のんびりと買い物をしたり、昼寝をしたりしている場合では
ないのである。俺は手始めに睡珠の本棚を調べ始めた。
 歴史書、外国語事典、日記、ノート、百科事典……総てがデジタル化されている現代で
は、睡珠がアナログで記録しているものはないに等しかった。日記も事典も総てが古びて
いて、まるで化石の発掘でもしているような気になってくる。日記でさえ初等部の頃に書
かれたもので、触るとぼろりと崩れるほどだった。おかしい、風化が激しすぎる……。
 しかし睡珠は考えてみれば遠い国からきたのである。時差が激しすぎる現代では、風化
が進みすぎる――酸化してしまうという現象も起こりうるのかもしれない。俺は崩してし
まった日記や事典を慎重にテープで補強しながら考えを巡らせた。信じるな、彼女が消え
てしまったという事実を……。
 信じてしまいたいという、誘惑。
 嗚呼、彼女はだが、消えてしまった。
 俺の、目の前から。
 なんて残酷な誘惑。
 崩れていく崖から堕ちていきそうな。
 どうして?
 何故そんな風に思ってしまうんだろう。
 俺は彼女の日記を抱き締めながら思った。この温かさが彼女にも伝わればいいのに。だ
が彼女は今や俺で、俺が彼女だ。伝わらない、伝わらない……。
 日記を元通り仕舞って、俺は睡珠の部屋を出た。誰にも伝わらない。今や俺はひとりき
りだと思った。



 リィ・ソーアは少々小柄だった。
 何故会ったのかと聞かれれば、興味があったから、としか答えようがない。一緒に音楽
的活動がしたかった?まさか。ただの暇つぶしだ。勿論、俺がデザインした服を着たのが
どんな奴か、興味があった。過ちだと叫ぶ心の声。しかし俺は会ってしまった。
 とろんとした瞳――銀色の、あのポスターと……否掲示板と同じ顔がそこにある。
「で、何か楽器ができる?」
 楽器?
「まあいいや。そんなの幾らでも合成できるし」
 合、成。
「連絡くれたってことはやる気があるんだろ?それだけで十分」
 軽い口調でリィはいった。ぞわぞわと鳥肌が立った。リィが微笑むだけで睡珠の身体は
過剰に反応した。
 嫌悪感。拭いようのない……。どうしてこんな感情になるんだろう。
「おい、どうしたんだよ。俺何か気に障ることいったか?」
 リィ・ソーアは俺より……睡珠より若干高い位置から俺の顔を覗き込んできた。銀色の
瞳。誰かと同じような――それでいて孤独の瞳。
「離せ」
 リィ・ソーアの手は俺の肩に置かれていた。それがひどく重く感じるのは、今の俺が女
性だからかもしれなかった。リィ・ソーアの手はひどくのろのろと外され、沈黙と共に彼
の脇に戻っていった。
「面倒だな」
 ぽつりと彼はいって頭を掻いた。俺は少し微笑んだ。リィ・ソーアはそれに気付くと少し
唇の端を持ち上げて、キスをした。
「それで、どうして俺に電話してきたんだよ」
 勝手に台所で作ったバナナのコンポートをつつきながら、彼は不機嫌にいった。俺はリ
ィ・ソーアの前に座っていた。どうしていいのか分からなかった。彼にあったままをいうべ
きなのか、それとも――馬鹿馬鹿しい。掲示板で見かけたから声をかけただけ。そのこと
に理由も何もあったもんじゃない。
「それ、どこで買った?」
「は?」
「そのスーツ」
「自分で作った」
 しれっとリィ・ソーアはいった。ふよふよとショートカットキーが風呂場から彷徨い出て、
辺りを湯気のように漂っている。
「くだらない嘘をつくな。それは俺が作ったものだ」
 しまった。と思ったときはいつでも遅い。リィ・ソーアはへえ、といってしげしげと俺と
自分の着ているスーツを見比べた。
「これ、あんたが作ったものなんだ」
 襟の辺りに触れ、リィ・ソーアはにやりとした。悪寒。
 思い出した。人間に蔓延する死病……感情の汚染。睡珠の無感動な瞳。
「面白いじゃん。あんたのこと気に入ったよ」
 口の横に皺が一筋。トイの感情豊かな仕草。微笑み。叱られた仔犬のような――それで
いて憂いのある女性のような。
 俺はリィ・ソーアの正面に腰掛けたまま、片腕をぎゅっと握った。呼吸が荒くなってくる。
悪い兆候だ。鼓動、脈拍……総てが逃げ出したがっている。総てが木霊している。
「それで、あんたはどこにいるの?」
「……?」
「あんたじゃない。俺の目の前にいるあんたじゃない。あんたが殺した、あんた自身だ」
 リィ・ソーアは立ち上がった。茶色い染みが白いテーブルクロスに広がる。自分が立ち上
がって彼に手を伸ばしていることに気付くのに、多少時間がかかった。ひどくゆっくりと
手が払い除けられて、転がったティーカップが遠い身体に熱を伝える。
 トイハ笑ッタ。
 デリートサレタ微笑ニ……。
 彼はキッチンを出るとまるでヒステリーでも起こしたみたいに、あちこちのクローゼッ
トを開けて回った。衣服、鞄、毛布、コート……気温を制御されたこの都市で不要の産物
たちが、次々と剥き出しにされていった。
 ごとん。
 鈍い音がして、俺は振り返った。
 床にこぼれる金糸……。
 トイが壊れた人形のように、クローゼットから上半身をはみ出させていた。リィ・ソーア
はゆっくりと跪き、トイの身体を抱き起こす。
「睡珠」
 違う。
「睡珠……」
 それは私じゃない。
 呼ばないで……。
「それは俺じゃない」
 ソミンはどこだ?
 彼女なら俺の感情をトレースできるのに。
「貴方が  だ」
 <名称の不在。>
 <システム・エラー。>
 
 <コマンドヲ解除シマス。>

 








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