牢獄の姫
お姫様は無実の罪を着せられ牢屋に閉じ込められました。
綺麗なドレスや、ダイヤやルビーのついたティアラは剥ぎ取られ、
代わりにゴワゴワした肌触りの麻の布を巻きつけられました。
服には蚤がいるのか、体のあちこちが痒くてたまりません。
唯一の救いだったのが、自分の惨めな姿を見る鏡すら、そこには無かったことです。
薄暗い牢屋の中で、唯一、両手をよこにつなげたぐらいの吹き抜けがあり、
そこからは光が漏れていました。
お姫様は最初の晩、王様や王妃様のことを想い泣いていました。
次の晩は、自分の不遇さを憐れみ泣いていました。
3日目の晩は、ただただ何もかもが恨めしく思えて泣いていました。
1周間が過ぎ、お姫様の涙はもうすでに枯れていました。
食事は一度、小汚い老人が、腐りかけの、家畜に食べさせるような食物を荒っぽく投げ捨てて牢屋の小さな戸を閉めるのです。
それが来ると、ああ一日がたったのだ、そう思い知らされるのです。
そこに生命の気配などなく、ただ唯一のぬくもりが、小さな小さな吹き抜けの穴から吹いてくる穏やかな風の存在でした。
お姫様は食べることをあきらめました。
ここから一生出られないのに、生きながらえても仕方がないと考えたからです。
もともと腐りかけのりんごや木の実が放置され、どんどん腐っていきました。でも誰もそれを片付けるものはいませんでした。
この牢屋が、食べ物の腐敗臭で満たされ、まるでゴミ溜めのようになっていく、お姫様はその心地に耐えられず、
食べることを再び始めるのでした。
雨になると腐敗臭のニオイは一層ひどくなるので、今までのゴミはなるべく吹き抜けの隙間に押し込んで外に出しました。
お姫様はその時初めて掃除するということを覚えました。
両手はゴミのニオイがするし、ゴミを移動させた後のニオイも最悪です。
でもニオイのもとを処分したお陰で、牢屋は、徐々に正常なニオイに戻って行きました。
ああ、もう少し、もうほんのすこし、この外に通じる隙間が広ければよかったのに。
何度そう想ったことでしょう。春のあたたかくてのどかな匂い。心地よさそうな風。
きっとガーデンで今頃大臣たちが談笑しているのでしょうね。
恨めしくも、羨ましくも、過去のそんな風景を思い出し、そして溜息がこぼれる。
外に出られないストレス、もう一生このままだという絶望、それらがお姫様の足をいつしかボロボロにしていた。
精神的に追い詰められていったお姫様は、貧乏揺すりのように、足をばたつかせたり、摺り合わせたりして、なにか満たされないものを、
必死に紛らわしていた。
お姫様の両足は、皮が何枚も剥がれ、血が滲み、固まり、それはそれは痛々しいものになっていた。
あるとき、食事を運んでくる男がいつもの男ではなかった。姫はその理由を知る由もなかったが、
実は今まで食事を運んできた男は病に倒れて亡くなったのだった。
その病気がうつったのかどうかは定かでは無いが、姫はあるとき、体の異変を感じ始めた。
四肢が徐々に麻痺し始め、何日も高熱にうなされた。
意識が朦朧とする中で、何度も死を覚悟したが、姫は奇跡的に命を取り留めていた。
牢屋での薄暗い、何もかもが奪われた日々だけでも、絶望に満ちたものだというのに、
病で寝込んだ時の苦しみは計り知れないものがあった。
しかし病気から回復して初めて、姫は生きていることを実感した。
牢屋での日々では決して感じられなかった生きている実感を、何日ももがき苦しめられた病で初めて実感したのだった。
あるとき、小さな吹き抜けの穴から虫が入り込んできた。
お姫様は虫が大嫌いで、体を仰け反らせて怖がりながら、虫を追い払おうとしたが、あまりに必死で外に出そうとしたため、
あやまって虫を殺してしまった。
姫はその瞬間、なんとも言えない、食事に石が混じっていて、それをジャリっ・・と噛んでしまった時のような、
そんな不快感と虚しさ、そして罪悪感を覚えた。
それでもやがて、そんな小さな出来事は忘れ、牢屋での薄暗い生活を送っていた。
あるとき、再び虫が入り込んできた。
やはりひどく驚き怯えたが、以前のようなことになるまいと、牢屋の隅に体を縮こまらせたまま、じっと虫を観察していた。
それはミツバチだった。
相変わらず虫は姫にとって気持ち悪く思えたのだが、ただ、虫の運んでくる春の匂い、そのとてつもなくあたたかく、うつくしく、
平話でのどかなにおいが、姫の心を和ませた。
外は本格的に春を迎えたようで、虫が牢屋に侵入してくる回数は日増しに増えていった。
姫は次第に怖がることが少なくなり、やがて虫を見てこんな風に思うようになった。
このなにもない牢獄で、この何も見えない薄暗い牢獄で、光の世界からやってくる使者。
虫はきっとそういう存在なのね。
私に生きていることを思い出させてくれる。唯一のもの。
虫は生きているのね。動いている。私のところに来てくれる。色んな匂いを運んで来てくれる。
私の唯一の、救い。
虫も、私も、生きているんだわ。
暗い暗い、狭い牢屋の中。地面は冷たいし、雨の日にはものすごくじっとりとして、気持ちが悪くて仕方がない。
何も見えない。何も聞こえない。誰も来ない。なぜ私は生きているのか、いずれ政治に利用するため、生かされているのか。
うまれたとき、お父様と、お母様がいて、こう教えられた。
誰も信用してはならない。お前に近づく者は全員、お前の地位を利用しようと企む奴だと思いなさい。
誰にも心を許してはダメ。
政治の策略に嵌り、親を殺されたお母様、何度もその王の座を奪われかけた、お父様。
そう私は、誰にも心を開かないようにと、そう教えられて、私も必死でそれを守っていた。
私に話しかけてくる人は、みんな下心があって、私にではなく、私の地位に興味があるの。
だから誰も信用しないわ。
大臣たちが話してるところを見たら、なるべく盗み聞きして、少しでも変な言動があれば、お父様にご報告するのよ。
・・・そんな風に、健気に、頑張ってきた少女時代があった。
思えば、私が盗み聞きしていたことなど、大臣たちにはバレバレだったに違いない。
私はいっつも目がつりあがっていて、ムッすりして、感じの悪い女の子だったに違いない。
大臣の子供、私と同い年ぐらいの男の子に、きみってほんと何にも喋らないよね、って、そう言われたことがあった。
そんなの、下手に喋って、弱みを握られたらどうするの、馬鹿じゃないの、これだから何もわかってないのね!
私はお父様とお母様のために、必死で生きてきた。
同い年ぐらいの子たちが遊んでいても、混ざらなかった。常に何かを警戒していた。
常にどこか不安で、いつも安心出来る場所なんてなかった。
そして、あるとき、大きな事件が起きて、お父様は家臣に捕らえられて、私も牢屋に入れられた。
なんでそうなったのかなんてわからないわ。なんで私が生き延びているのかも。
わたし、小さい頃から、ヘマをしたら、ギロチンで処刑されるって聞かされていたから、そうならないよう、
ずっと頑張ってきたのよ?
ギロチンで首を切られるのは私だけじゃないの、私がヘマをすれば、家族全員がそうなるって聞いたわ。これは両親から聞いたんじゃないのだけれど。
でも、もう、牢屋に入ってこうして過ごしていて思うの。
私の人生は、何だったの。もうちょっとだけ、ふつうの子みたいに生きればよかったなって。
だってどうせ、牢屋に入れられて、死んでいくんだったら、もっと遊んでいても良かったじゃない?
ふつうの子みたいに、お友達をつくって、お喋りしたり、お城を探検したり、隠れんぼしたりね。
・・・そんなことをやっておけばよかったわ。どうしてあんなにも頑なに、お父様とお母様のいうことを聞いていたのかしら。
でもそうね、きっとそれは、お父様とお母様が、それだけ必死だったのね、地位を守るのに。王権を守るのに。
お父様とお母様の苦労話は何度も何度も聞かされたわ、貴方にだけは、信頼していた者に裏切られて、寝首を掻かれないようにと、
お父様もお母様も必死だったのよね。
でももうたくさんだわ。結局私、お城にいても、牢屋にいるのと同じじゃない。
いいえでも、お城にいるときは、ちゃんと美味しいって感じられるお料理が勝手に時間になると食べられるのよ、
それってすごいことだったのね。ずっとそれが当たり前だと思っていたけど。
それに、お城はいつもきれいし、でも、そう、お父様もお母様も、いつも忙しそうで、気が張り詰めていて、本当に私まで、気が休まることなんてなかったわ。
一度、下女が両親と会っているところを見たことがあるのだけど、それはもう、和やかで、楽しそうだったわ。
本当に幸せそうで、私は嫉妬したわ。羨ましかった。
私も、一度でいいから、あんな風に私の両親と、過ごしてみたかった・・。
どうして下女に手に入るものが、姫の私に手に入らないのかしら。
・・でも、その次の日、その下女は泣いていたわ。
下女が両親と面会を許される時というのは決められていて、会えるチャンスは限られているのだと聞いたわ。
どうしてそんな決まり事を作ったのかしら。決まり事といえば、この世の中って、本当に決まり事だらけ。
決まり事で支配されているのがこの世界なのよね。
朝から晩まで決まり事だらけ。
一時期、きちんとそれら全ての決まり事が守れる私ってとっても素敵なレディだわ!って思ったこともあったの。
でもね、なんかヘンだわ。その決まり事のせいで、私も、お父様もお母様も、下女もみんなね、みんな不幸になってる気がするの。
決まり事って誰が決めたの。先代の王からの習わしって?伝統とか歴史って一体何?
そんなにも、大勢の人を不幸にしてまで守らなくてはならないもの?
私にはわからないわ。幼少の折聞かされたご本にはこう書いてあったはずよ。
人は幸せになるために生き、幸せを求めて行動するものだと。
真の幸せを見つけるために生きているのだと。
ならば何、あの王宮でしていることはなんなの?
私はお父様とお母様が、ただ笑ってくれていればそれで幸せよ。
地位や命を狙うのもやめてほしいわ。あと、もっと他の人とも、下心とか、建前とか、そんなもの無しに付き合ってみたかったわ。
私の望みはとっても贅沢なものなのかしら。
でも今の一番の望みは、そう、この牢屋から出ること。
一度でいい、一度でいいから死ぬ前に、この吹き抜けの穴から出てくる光、この穴の外が見てみたい。
この外に出て、風に触れて、地面に触れて、そこで横たわって死んでもいいわ。でもせめて、死ぬのならそこで死なせて。
あたたかい草花のお布団の上で、どうか死なせて。
こんなジメジメした薄暗い牢屋の中で死ぬのは嫌。大体成仏出来なさそうよね。死んでも呪って出てきそうなくらいに薄暗くて嫌な感じじゃない。
こんなところで死ぬのは嫌よ。
私はせめて、あの光の中で死にたいわ。私が小人だったらよかったのに。
私の体を小さくして、ここの穴から出して。そして光の中で、妖精たちとミツバチと踊るの。
----らららん、らん。-------
そんなここちの良い夢も、ごく稀にだが見るようになった。
狂気に満ちている時、落ち着かない時、悪い思い出ばかりが蘇るとき、
そしてそれとは反対に、過去の僅かな幸せや、ぬくもりや笑顔が蘇るとき、
僅かな吹き抜けの穴から来る光が心地よくて、光が何倍にもなって、私を包み込んでいるような、
そんなあたたかなひととき。
絶望と不安と、安穏と、僅かな希望、そんなものが入り交じって、月日は過ぎていった。
あるとき、それは突然にやってきた。
牢屋の戸が開けられた。
ギギィーーっとひどく鈍い音を立ててそれは開いた。
姫は何が起こったのかわからなかったが、やがて全身が震えた。
牢屋から開放されるとき、それは、ふつうに考えれば、私が要らなくなった時。
姫が、不要になった・・・つまりは、私が、殺される時。
殺される、今から、殺される・・・。
それがリアルに差し迫った時、足は制御出来ず、両手は震えが止まらず、頭が真っ白で何も考えられない。
ものすごく恐ろしかった。
牢屋での生活のあまりの虚しさで、何度も死を望んだが、いざ殺されるとなると、ここまで震えが止まらないものなのだと、
そして真っ白な頭の中で、必死に神に願いを、殺さないで、殺さないでと、ものすごく必死に、祈っている。
・・・しかし牢屋の扉を開けた兵士らしき男の顔は、そんなに険しいものではなく、扉だけ開け放って出ろと言っただけで、
私をどうこうしようという様子はなかった。
私は足が立ち上がらなくなっていた。
それもそのはず、足はほとんど骨と皮で、もう立つ能力など残されてはいなかった。
その様子を見た兵士は、私を抱き上げ、薫り立つ草の地面に下ろした。
どこへなりと行くがいい。そんな言葉を言い残して兵士は去っていった。
どういうことなのか、何もかもがわからなかった。
ただひとつ、牢屋にいた時の夢が叶った。
私は今、光の中にいて、私は今、この草花の上に、横たわっている。
・・・しばらくそんな幸せを噛み締めていたが、やがて不安が徐々に襲ってきた。
私は歩けない、そして、もう食べ物も無い。こんな場所に、一人ぼっち。
・・・もう誰も、食べ物をくれたりはしない。私は動けない。
そう想った瞬間、この光の中の景色が、突然残酷さを帯びてくる。
自然は限りなく温かい、そんな存在だと思っていたのに、どうしてこんなに、残酷なものに見えてくるんだろう。
私のずっとずっと願ってきた夢がやっと叶ったというのに、どうして私は今、絶望しているんだろう。
そうね、私、どうせ死ぬならここで死にたいと願った。だからここで、横たわったまま、眠りにつけばいい。
それが私の願いだった。
ずっと横たわっていると、夕方になり、雲がどよめきたち、やがて雨が降りだした。
・・こんなことになるとは思わなかった。
このまま光の中で死ねるかと思っていたのに、一向に死ぬ気配がないし、だからといって、誰も助けには来てくれない。
お姫様は急に現実に引き戻され、生きるための思考を始めた。
距離的には、元居た牢屋の建物が一番近い。あそこまで、なんとか地面を這って移動しよう。
とにかく必死だったので、その日何も食べていないにも関わらず、長らく運動などもしていないにも関わらず、
牢屋がある建物まで移動することが出来た。
でもそこまでだった。急に疲労感が全身を襲い、だるさと眠気が感覚を支配した。
それからどれくらいの時が流れたかはわからない。
ただお姫様は、ものすごい空腹感とともに目覚めた。
人間はほんとうに、簡単には死ねないらしい。
お腹が空いたが動けない、食べ物もない。
他に選択肢は残されていなかった。
お姫様は草と花を食べた。その時は良かった。だが、数時間経つと腹痛に苦しめられた。
そんな日々を数日間過ごした。ものすごく大変だった。だが自由はそこにあった。どこへでも行けた。
開放感があった。そして自然がすぐそばにあった。
両親や、家臣のことが、ふいに、心配になった。お父様はどうなったのだろう。そう考えると、ものすごく不安でたまらなかった。
あるとき、見知らぬ老婆が通りかかった。老婆に何か訊かれたが、怖くて答えられなかった。
老婆はそのまま帰っていった。
助けを求めるべきだったとひどく後悔した。
しばらくして老婆が村人を連れてきたらしかった。
男たちは私を村にある家まで運んでくれた。
色々と事情を訊かれた。姫であることは黙っていた。
ずっと何も食べていないのだというと、粗末な食事を用意してくれた。
粗末といっても、城の食事に比べるととんでもなく粗末だが、
牢屋での食事に比べると、とんでもなく贅沢なものだった。
私はずっとそんなまともな食事をしていなかったので、すぐに吐いてしまった。
ものすごくもったいないと思って涙が出た。
でも横にいた男は私を責めずに、ゆっくり食べろよ、などと声をかけて、背中を撫でてくれた。
私は村人に救われて、徐々に歩けるようになった。
私は歩けるようになり、ふと鏡を見る機会があった。
私は、もう姫でもなければ、女ですらなかった。
山姥・・、いや、まるで野獣・・。
髪はボサボサで引き千切れて、体はガリガリで、顔は黒ずんで、ぎょろっとした目。
醜いとかいう次元でなく、動物じみていた。
そんな自分の変わり果てた姿が相当ショックだったが、同時にこんな人間らしからぬ生き物を、村人は助けてくれたのかと、
そんな村人の寛大な心に胸打たれた。
姫は、徐々に、自分を取り戻していった。
姫にとって少々ガサツだと感じられた村人たちの対応にも慣れ、
そして姫は人の心に眠る大きな温もりを感じていった。
激変する運命の中で、姫は夜空を見上げながらこう思う。
本当に素晴らしきものは、豪奢な城の中ではなく、こんなちっぽけで辺鄙な村の中にあったのかと。
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