ヴァイオレットエンジェル
《もくじ》 [1ページ目] [2ページ目] [3ページ目] [4ページ目] [5ページ目] [6ページ目] [7ページ目] [8ページ目] |
それは、舞い落ちる雪のようだった。 天上からふわふわと舞って、右へ、左へ、下へ―― その、先へ。 ふっとひらめかせる右の掌。掠めてこぼれる羽。伏せて塵を積もらせる睫。 光溢れる天上へ――天使の翼と悪魔の翼で、半分の禁忌を犯して――舞い上がって――。 薄紫の長いワンピースのような服。ふわふわして温かい――暖められる必要はない魔性の身体――なのに。 僕はふっと自分の頬を掠める羽を捕まえた。 それは天使たちの残骸だ。 抜け落ちた、天に召された天使たちの亡骸。 天使たちの命日。今日は、天に召された天使たちの死を弔う日だ。 この秘密の場所では、誰もいない。雲が永遠に足元を漂っていて、地平線になっている。 空は――空の上の、空は――まるで陽だまりのようで、ぬくぬくと光を溢れさせている。 ふわっと、地を蹴って、雲の中に倒れこむ。 以前、十年ぐらい前に観た映画で、こんなシーンがあった。 少女が雪のような塵に包まれていくシーン。 まるで少女のようだといわれる自分の丸い頬を撫でて、僕は目を閉じた。 雲の下にはむせ返るように白い羽毛が層になっている。 ラッパが聞こえる。 いつまでもこうしていたかった。 だが、夜と昼とが飽和した天上界ではもう日付が変わりそうで、 休日の今日が終わったら、勤め人の僕は、出勤しなくてはならない。 ああ―――。 「憂鬱だあ……」 ぼくは立ち上がって、新たな仕事を言い渡されるであろう明日に、思いを馳せるのだった。 聳え立つ白亜の城。豪奢で、立派で、傲慢で。 鋭塔が連なったそれが皮肉にも地獄の城の形状に似ていることを、皮肉にも、嫌われ者の僕だけが知っている。 嫌われ者――。 そう、それは城に一歩足を踏み入れ、天使たちの視線にさらされるときに、現れる。 まるで鳥肌が皮膚をぞわりと覆い尽くすかのように、視線は僕の全面を覆う。 せめて、ぼくは異端の印である悪魔の片方の翼を背中に仕舞う。天使の羽も、両方だ。 ひそひそ。 ひそひそ。 僕はちょっと猫背になって、とぼとぼ歩く。 あれが、悪魔の――。 そう、血が混じった――。 ――なんて―― “汚らわしい” 「ヴァイオっち。休日はどうだった?」 ひょこっと顔を見せたのは、仕事の上では先輩にあたるローザだ。 僕はちょっと涙目になってたのがばれたのではないかと、ぱっと顔を背けた。 ローザはピンク色の髪に蒼色の瞳をもった、翼を持たない種族の人だ。 といっても彼女は空を飛べる。何故翼がないのか、何者なのかは誰も知らない。 僕は、知りたいとも思わない。僕が悪魔の血を引いていて、 なおかつ地獄とも行き来している異端の存在であることも、 何も気にせず接してくれる、彼女を、とても素敵に思っている。それだけだ。 僕が背けた顔の頬を突っついて、ローザと同じく青い制服に水色のネクタイをつん、つん、つん、とつっついて、 最期に男女共のデザインであるむき出しの腹の、おへそのあたりをちょん、とつっついた。 「あうっ!」 「何ふくれてんの、ヴァイオっち」 「ヴァイオっちって呼ばないでください……」 「む」 そんなに無意味に顔を近づけないでほしい。 ふんわりした甘いニオイが漂ってきて、僕はくらくらする。 「タイムカード、ぶぶー、時間切れ」 僕ははっとして慌てて出勤すると押すことになっているタイムカードのところに走っていった。 間一髪。朝の八時半までに押さなければならないタイムカードは、29分で押すことができた。 ローザが後ろからゆっくりついてきて、フリルのついた青いミニスカートに手を当てる。 ちぇっ、と唇を尖らせる。 「いじわる……」 「何ですって?」 にっこりとローザが微笑んで、僕の紫色の髪をひっぱる。 それにしても髪が紫だからヴァイオレットだなんて、一体誰がつけたんだろう。 天使にも悪魔にも親はいない。気がつけば一人で生きている。 生まれた記憶も死んでいく記憶も、ない。 一人ぼっちだけれど。 だから、近しい人の傍にいたい、と、僕は思う。 僕はローザと別れて直属の上司の下へ向かった。4階の突き当たり。 壁も、階段も、手すりも、何もかもが白くて、地獄にいった後は、僕はその色彩の違いにくらくらする。 こんこん、とノック。入れ。と中から声がして、僕はドアを開ける。 そこにいたのは、長髪の金髪碧眼の天使だった。 床につきそうなくらい波打った髪。長い睫。 もう、THE天使といってもいいくらいの、典型的な天使の容姿、美貌。 僕はぺこりと頭を下げて、対照的に短い自分の髪をちょいとつまんだ。 伸ばそうかな……。 上司・ルーミネイトには特別憧れてるわけではないけれど、 もう、典型的な天使に近い容姿になれば、ちょっとはいじめられなくなるかな、なんて……。 あ、そしたら地獄で悪魔にいじめられるのか。 むう……。 「どうした?」 中世的な声。これも天使らしい。人間のいう男らしい、女らしい、という記号にも似た、 絶対的な“らしさ”がこの人にはある。 「いえ……」 僕はちょっと微笑む。微笑みって便利だ。無意味に安心を引き出す力が、あるような気がするのだ。 「そうか」 ルーミネイトはまた手元に視線を落とす。書類の山。無関心な、けれども優しげな。天使のような。天使のような。 沈黙。 僕は窓の外に目をやって、ルーミネイトは書類をめくって、ぱら、ぱらと規則的な音がする。 ぱたん。 ファイルを閉じる音。僕はルーミネイトの仕事がひと段落したことを悟って、 ゆっくり、ふっと、窓からルーミネイトに視線を移す。彼は、彼女は?口元に手をあてている。 僕を見ている。 笑っている?ううん。観察してる。僕のこと。 僕は、視線を彷徨わせて、なんとなく靴のつま先を見た。 僕はきこえないようにそっと咳払いをした。けれどそれは乾いて響いた。 1分……2分……。 それとも、もっと短い? 沈黙。 僕がぼんやりと沈黙に叱責の響きを感じ始めた頃、ルーミネイトは立ち上がった。 起伏とも平坦ともとれない胸部に視線をやって、ちろりとルーミネイトの顔を見る。 ルーミネイトは窓の方に目をやって、君は、といった。 「いろいろな意味で、ここでは特別だよ」 仕事もね。 そういった。 僕が天使でもあり悪魔でもあるという事実。 善行と、そして悪行を地獄と天国のお偉方に報告する役目を持つこと。 文章にしてしまえばそれだけの。 けれど、あまりに象徴の羽に重くのしかかる事実。 「そんな君に、うってつけの仕事だ」 ルーミネイトがこちらを向いた。瞳は、空色の目は、ひどく優しげだった。 いたわられているような気がして、僕はちょっと傷ついた。 ローザなら、そんな扱いはきっと受けない。 そう思うと、僕はひどく心もとない気がした。 僕はローザのことが好きだけど、それ以前に、先輩と後輩であるとはいえ、対等でありたかった。 ルーミネイトはかつ、かつ、とブーツを鳴らしてこちらに歩いてきた。 白い手袋をひらめかせると、ふっ、と書類の束が現れる。 それをぴっと僕に差し出す。僕はそれを受け取る。書類には顔写真がついていた。 人間だ。人外の、そして人より上だという天使にとっての常識という本能が、僕にそう告げた。 一番上の書類に貼ってある写真に写っていたのは、あどけない顔の少女だった。 ひどく無愛想で、とても可愛らしい部類に入る女の子。 艶のある黒髪と濡れた瞳、赤いくちびるが鮮明に焼きついた。 「全部で五人いる」 ルーミネイトはそういった。僕はぺらりと書類をめくる。チワワみたいに瞳が大きな金髪の少年。 とびきり元気な笑顔を浮かべる少年。ギリシャ彫刻のように美しい青年。茶色い波打った髪をもつ垂れ目の、中性的な人物。 個性に富んだ人物たち、という印象を受けたが、それ以外の、つまりルーミネイトの真意が分からなかった。 「彼らには共通点がある」 ルーミネイトは言葉を切った。こちらを見ている。 「彼らは共同生活を営んでいるということ、もうひとつは」 沈黙。 「極楽地獄、にアクセスしているということだ」 「極楽地獄……?」 うむ……。 ルーミネイトは椅子に座り、長い金髪をさらりとはらった。 「オッフェンバックの天国と地獄をモチーフにしているとかしてないとか…… 正体不明の管理人二人が運営しているホームページだ」 僕はごくりと喉を鳴らした。天国と地獄。それは僕の羽の象徴。 「なんてことはない、そんなに閲覧者もいない、ホームページだが……」 ここからは秘密だ。という合図。ルーミネイトが秘密を話すときにする、ペンを弄ぶ仕草。 「上級の魔法使いが、このホームページに魔法をかけたんだ」 「そんなことができるんですか……?」 「うむ」 「……一体どんな魔法を?」 「それがだな……」 ルーミネイトはたっぷりと勿体をつけて、目を伏せた。 「見えるんだよ」 「何がですか……?」 「私たちが」 天使が!? 僕の息を呑んだ様子が伝わったのか、ルーミネイトが付け足した。 「このホームページを訪れた全員が見えるわけじゃない。この五人だけなんだ。 それも、ある条件を満たした者だけが見えるようになる」 「条件……!?一体どんな……」 ルーミネイトはまた勿体をつけた。僕はちょっといらいらした。 「一体、どんな条件を満たせば僕らが見えるようになるって言うんですか!?教えてください!」 「書き込みだ」 「書き込み!?」 「そうだ……ホームページのどこかに一定以上書き込みをしたら、見えるようになるんだ……」 「書き込み……」 「書き込み」 ルーミネイトは頷いた。僕は唖然とした。 しばらく沈黙が続いた。僕はしばらく黙って、ようやくいった。 「それで……何故僕に?僕に何をしろっていうんですか?」 「うむ……彼らには、天使が見える。だが、悪魔は見えない。 天使と悪魔の血が入り混じった君なら、もしかしたら姿が見えないかもしれない。 彼らの善行を記録する役割を、君が担ってほしい。それと」 ルーミネイトはしばらく考えこんだ。 「観察役……だな。様子を、見て、事細かに報告するんだ」 「は、はい!!」 僕は身がひきしまる思いがした。 |
ヴァイオレットエンジェル
《もくじ》 [1ページ目] [2ページ目] [3ページ目] [4ページ目] [5ページ目] [6ページ目] [7ページ目] [8ページ目] |