墜地の果て
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アスタネイトの前に、ダンテが歩み寄る。 「奴を、人間にしてください。」 「それは謹慎中のお前が決めることか?」 アスタネイトは冷たく答えた。 ダンテは永凍宮に入ったことがバレてその後謹慎処分を言い渡されていた。 天界の目を掻い潜ることは至難の業だということはダンテもよくわかっていた。 だからこそ一つ解せなかったことは、本の読解に関して何一つ問われなかったことだ。 あれだけの大掛かりの歌魔法での解除呪文。そして消えたりんごとアーシャ。 ダンテには不可解なことだらけだった。不可解なことといえば、それだけに留まりはしない。 ルーミネイトも行方知れず。死神と名乗ったレナシーのことも、彼女の意図も存在も全くが謎に包まれている。 ダンテはとりあえず、大人しくしているしかなかった。それが、ダンテの再起を図るには一番の近道だったからだ。 ・・・・なのに、予期もしなかった大事件がまたもやダンテを襲ったのだ。 ヴァイオレットが悪魔になり、辺り一面惨状と化した。 奴にはなるべく大人しくしていろと普段から口を酸っぱくして言いつけておいたはず。 それが、天界でいるためには最善のこと。なのに、なぜ、奴はそれを放棄したのか。 自ら全てをぶち壊したのか。 ・・・正直、兄であるヴァイオレットの存在に、ダンテはウンザリすることも多かった。 ダンテは容姿も申し分ない天使らしい天使だった。 美しい羽と、金に輝く髪。青い澄んだ空のような瞳。知性もあり、天界でも大いに必要とされている。 その彼の、唯一の汚点。それがヴァイオレットに他ならない。 彼にとってとても疎ましい、影。隠したいもの。自分の穢れ無き美しさや誇りを汚し、ずるずると引きずり回す。 それが兄である半天使ヴァイオレットという存在だ。 だから、天界にいる兄は疎ましい。天界で天使として生きる兄の姿は、ダンテにとって日常的に辱めを受けるものでしかない。 兄を堕天させようと、色々仕組んだこともあった。でもヴァイオレットは折れなかった。 むちゃくちゃに傷つけられても、その都度、立ち上がっていった。 段々と、ダンテの中でどこかでヴァイオレットのことを誇らしく思える感情が芽生えていたのかもしれない。 こいつはすごい・・・そう、こころのどこかで、思っていた部分があったからこそ、 今、ダンテはアスタネイトに、こんなことを進言している。 「今、天界は、奴に構っている暇など無いはずです。天使が何人も姿を消しているんです。」 「だから、彼を人間にしろと?処罰せずに?」 フッ・・・と口元が緩んでアスタネイトはこう続けた。 「以前君はこう言っていなかったか。ヴァイオレットは兄ではない。兄弟だと考えたことはない、と。」 「俺は純粋に利害の大小の観点から優先順位を述べたまで。奴を兄と思ったことはありません。」 冷たい口調で冷静に言い返すダンテ。 「ま、この問題は、謹慎中の君の意見で揺らぐものではないからな。」 そう言い放たれ、為す術が無くなったダンテは一瞬、目を細め眉を顰めて、口惜しそうな表情を見せた。 このヴァイオレットの大事件は、天界の色んなところへ広まっていた。 色んな天使の耳に入り、色んなウワサが天界を舞った。そして、ここにもあの大事件のことは届いていた。 「ハァァーーーーーーーーーーーー・・・・・・。」 人一倍長~いため息をついたかと思うと、ノルディはそのへんに浮いていた光の粒にデコピンした。 「な~~~~~んでこうなっちゃうかな????」 ヴァイオレットの起こした事件については、事が事だっただけに、ノルディの耳にもすぐに入っていた。 彼女はヴァイオレットにイラつきながらも、心の何処かでピシっと前を向いた天使にさせたいと、そう願っていた部分があったのかもしれない。 どこかで彼をもっと良い天使にしてやろうと気負っていた。 それなのに・・・、彼女の意気込みは見事に空振りとなった。 それどころか、ヴァイオレットは、今天使ですら無くなってしまった。 ノルディの中は今、遣る瀬無さでいっぱいだった。 一連の天界の大事件に続き、ヴァイオレットが悪魔化までした。 心穏やかでいられる時がここ最近まったく訪れる気配がない。 「天界ってこんなに、騒がしいところだっけ?」 そうノルディは一人で呟いてみた。 天界といえば、悪魔と戦争を繰り広げていた時代もあったが、 ここしばらくは落ち着きを取り戻し、天使たちが歌い、舞い、笑い声や喜びに満ちていたのが いつもの天界ではなかっただろうか。 いつもキラキラと、生き生きしている、白く目映く、笑顔で溢れかえっている。 楽しいことがいっぱいで、穏やかさで満ち満ちて、それが天界という場所の本来の姿だろう。 天界は、どこかで、何かを落としてしまった。 そしてその結果、こんな大事件がまた発生するようになってしまった。 天界も、天使も、人も、悪魔も、何かを探しながら、何かを求めながら、ここにいま、存在している。 人間界では何日もの間、雨が降っては止み、降っては止みが繰り返された。 そんな中、ヴァイオレットの処置が決まった。 重要な部分の記憶を消去。取り分け悪魔化に至った部分の負の記憶を抹消のうえ、人間界への追放が決定した。 ヴァイオレットは最後の力と、最後の感情とを天使たちに奪われて、カラになった人形のような状態で、 人間界に突き落とされた。 ヴァイオレットは、人が住まなくなったオンボロ小屋の一番くらいところで打ち震えていた。 何か、記憶は茫漠としているのに、深い深い拭い去りようのない罪の意識が大きな傷となってヴァイオレットの中に残っていた。 何日か経って、誰かがオンボロ小屋の中へと踏み入れてきた。 ゆっくりと、一歩ずつ前へと踏み進めて、その人物はヴァイオレットとの距離を縮めた、その瞬間。 ガチャン!!物が割れる音によって辺りの静寂が瞬時に破られる。 ウワァアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!!!!! ヴァイオレットは暴れていた。部屋にあったたくさんの物を投げ、侵入者を追い払おうと必死だった。 ヴァイオレットの人間にされた体は全身やせ細り黒ずんで、乾いた棒っきれのようだった。 「・・・すみません。」 暴れるヴァイオレットとすこし距離をおいた場所で、誰かの声が聞こえた。 「・・・・・すみません。急にいなくなってしまいました。 ・・・・すみません・・・・。そのことが、これほどまでに、貴方を苦しめたということなのですか。」 小さいけれど、強い、意志の感じられる声。懐かしい。あの、ごんべえの声。 ヴァイオレットのものを投げる手はぴたりと止まった。でもその両手は未だに、小刻みに震えている。 「すみません。弁明の余地は無いでしょうが、ある方に呼ばれて、少し貴方の元を離れていただけなのです。 その方も貴方のように大変な事態でしたので、貴方が休息をとっている間だけ離れるつもりが、長引いてしまったのです。」 記憶が曖昧なヴァイオレットは、何のことが意味がわからず、ただただ打ち震えている。耳だけは欹てながら。 ごんべえはヴァイオレットとの距離をもう少しだけ縮めて、彼にこう放った。 「もう一度、生き直しませんか?」 ヴァイオレットは、静かに、むっくりと顔を上げた。挙動は不自然なままだが、僅かな静寂さが顔に戻っていた。 ヴァイオレットはごんべえの方を直視できなかったが、彼が差し出した大きな手のひらを真剣な眼差しで見つめていた。 ・・・そこから半年の月日の間、ごんべえは根気よく、ヴァイオレットの元へ通い続けた。 人となったヴァイオレットに食べることを促し、食料を渡したりした。 このまま放っておいたら、彼はきっと、何も食べずに餓死してしまうだろう。そんな確信がごんべえの中であったからだ。 ヴァイオレットはもはや人間ですらなく、猛獣のようだった。 恐怖から来るものだろうか、絶望がそうさせるのだろうか、 それとも過去に犯した罪の重さに対する苦しみなのか、彼はよくそこら中のものを破壊しつくしていた。 そのうえ、彼の体はどこも引っかき傷でいっぱいだった。よほど足掻いて苦しんだのだろうということが、痛々しく伝わってきた。 ごんべえはその時はまだヴァイオレットに近づくことすら出来なかった。 彼はまだ世界全てを、自分を拒絶していた。 人ならざる呻き声や叫び声を辺りに響かせ、苦しみもがいていた。 ごんべえはその一部始終を、だまって、ただ見つめることしか出来なかった。 ヴァイオレットは誰にも心を開いてはいなかった。 きっと彼の苦しみは、世界をまるごと、破滅させるような壮絶なものだと見てすぐにわかる。 そしてそれは、誰にも、誰の手でも救うことは叶わないのだと、その虚しさをごんべえは腹の中で膨らませていた。 あるとき、ヴァイオレットの髪色が変化し、髪が抜け始めた。 紫色の髪は真っ赤に染まり、そして色素が抜けて、髪が抜けていく。 自分で引っ掻いた傷が頭にもあり、髪が毟られた跡もある。 ごんべえはこの惨状にあまりに心を痛めていたが、どうすることも出来なかった。 ごんべえが近づこうとすると、ヴァイオレットは必死で抵抗するのだ。 それ以上近づこうものなら、ヴァイオレットはごんべえを殺す勢いだった。 それ程にヴァイオレットは何かを怖がっていたのだ。自分自身をも怖がっていた。 そして苦しくて苦しくてしょうが無い。始終そんな表情を見せていた。 彼は、ヴァイオレットは、食べ物を腹に入れられたとしても、いつか死んでしまうかもしれない。 ごんべえはそう感じていた。 ヴァイオレットの本当の絶望など、本当の苦しみなど、誰にもわかるはずはなかった。 ただ彼が発する壮絶な阿鼻叫喚を見て、どれほどの地獄に囚われ続けているのか、 それがどれほどの苦しみを伴うものなのかを、想像することしか出来はしない。 時折天界の秩序に属さない精霊や天使たちが、ヴァイオレットに治癒の光を届けようとしていた。 しかし、せっかく届けられようとした光も、彼が全てを拒絶しているせいで、彼の中に入ることはない。 彼が癒やされることもなかった。 ・・・・ある日、とうとう、彼は動かなくなった。 食事もしなくなった。暴れることもなくなった。体の震えも収まっている。 薄汚れた傷だらけの骨のような腕が、力なく冷たい廃屋の床の上にある。 肌は黒ずんで生気が感じられない。 これ以上はお手上げだった。もう誰にも、どうすることも出来なかった。 もしかしたら彼にとっては、死が、完全なる死、消滅こそが、彼にとっての一番の安らぎかもしれない。 彼が送った半年間は、死よりもずっと、悍ましく痛々しく絶叫するものだっただろう。 彼は、とうとう、その全てから開放・・・・ ・・・・・・されることはないのだ。 |
墜地の果て
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