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[5]緩歩のあしあと(page6)

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緩歩のあしあと 《もくじ》
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何か冷たいものが、頬を伝って流れたような、そんな感触を覚えて少女は目を覚ました。
「あ・・・・」
りんごは夢を見ていた。とても懐かしくて、悲しい夢。そして不思議な夢。
何かに包み込まれるような温かさと、悲しい記憶。
りんごの中にはたくさんの悲しみが存在していた。
りんごの悲しみの歌が、世界中のあらゆる悲しみと共鳴する。
りんごはそれを癒すために歌い続けた。
そんな昔の記憶が蘇ってきた。
「懐かしい。多くの時を、わたしは生きてきたのね。」
多くは忘却してどこかへと眠ってしまった記憶の断片。
それが何かのキッカケでありありと鮮明に蘇ることがある。
「・・きっと、ものすごく久しぶりにあんなすごい歌魔法を使っちゃったから。」
軽い溜息をつき、りんごは辺りを見回した。
「これは、アーシャさんが、私のために作ってくれた、治癒のための光のストリーム。ここで私、寝てたんだわ。」
・・・アーシャさんは、どこかしら?

りんごがアーシャのもとへ本を届けた際、アーシャが疲労困憊していたりんごのために特別な空間を設けてくれたのだった。
アーシャは天界に独自空間を所有しており、自在にそれを操ることが出来る。
そこであらゆる研究や調査を行ったりしていた。
普段はこの独自空間に入り浸りの引篭もり状態なのだが、気が向けば、たまに来る訪問客にはそれなりの饗しをしてくれたりもする。
サッパリした性格で、普段はあまり面倒見が良くない方なのだが、
りんごのあまりの疲弊した姿を見てさすがのアーシャも放っておけなかったということなのだろう。

「やさしいヒト、あったかい。あのヒトが作ったストリームは、とてもあたたかい。」
りんごはアーシャ特製治療ストリームの中で、ほんわり癒されながら、そんな独り言を呟いていた。
・・その時だった。

けたたましい破裂音!

何か鋭いものが斬りこむようにいきなりアーシャの空間をバラバラにし始めたのだ。
その攻撃は容赦が無い。
ダンボールに隠れている人間を上からダンボールごといきなり斧で叩きつけるような凄まじさと恐怖と緊張が、
同時にアーシャにも、りんごにも流れた。

2人共、その瞬間死を覚悟した。
この衝撃の凄まじさでは、一瞬にして、命が無くなることを、本能が感じ取っていた。
防御する余裕もなく、ただただ、2人は、目の前に迫り来る死と、恐怖と、そしてその目の前の攻撃に、
体全身を強張らせ、何もかもが頭から吹っ飛び、ただ何かを受け入れようと、ただそうするしかないと、
諦めと、恐怖と、焦燥と、そして無へと向かう悲しみが、一瞬のうちに掻き消された。


―――――天に抗うものは天罰を喰らい、命は瞬時に消滅させられるであろう。

昔、はるか昔の人間界の神殿に、そんな言葉が、古代文字で掘られていた時代があった。
人々は神に服従し、神を恐れ、神を敬い、戒律を定め、法で人を縛り、管理し、善悪を取り決め、すべてを神の名のもとに行なっていた。

悲しき、悲しき、小さな存在たち。

私たちは抗えぬ。決して、決して、抗うことなど許されなかった。
抗えば消されるのみ。そんなことは知っていたのに。
ただ一度だけ、その秩序の、秩序ある世界の外に出てみたかっただけなのに。
私は消され、みなも消され、そして記憶は、感情は、心は無に帰す。

私は、私たちは、遥かに大きな、大きな存在の、たった一粒だけの存在にすぎないのだ。
大きな流れには逆らえず、そう、何か、何かが出来ると私たちは信じていたのだ。
・・・無念だ。

私達は、神に逆らい、殺される、否、存在そのものをこのどの世界からも消されてゆくのだ。

無念、私たちは、ただ、自由が欲しかった。



法を犯し、罪とされたことをやると罰せられる。そんな法に疑問を持った。
神というものに疑問を抱いた。私はこの世界の、ありとあらゆるものが理解できなかった。
何もかもが受け入れがたかった。

弱き者が死に、強き者は優遇され、目に見えぬものが法を定め、神と名乗る。

私は神がどんな存在かなどわからぬが、こんな我々を縛る神なら存在せぬ方がましだ。
しかし我々は、大地のエネルギーから育つ穀物、動物、水で生きている。
我々はとてつもなく小さく弱い。
我々は何一つ成せなかった。

私はただ、この世界の有り様が、私の求める善と違っていた、それだけなのだ。
ただ、それだけだったのだ。


本当に良き世界とは、このようなものなのだろうか、ただそう思い続けていただけなのだ。
神の領域を犯そうとか、冒涜しようだとかなどとは思っていない。
ただ見たかったのだ、私の、求める、自由な世界というものを。


繰り返される歴史。多くの同じ様な出来事が、今また起き、そして消えてゆく。
回り回り、巡り巡る。この世界の秩序を作ったのは誰か?
神か、それ以外の誰かなのか、それとも。


残酷とも言える無限の時間の中で繰り返される悲劇。
2人の天使が、今、そこから姿を消していた。
いや、アーシャのいた、りんごのいたその空間ごと吹き飛んでいた。
周りにいた天使たちが口々にこう囁いている。

―――――天罰、と。

やがて、中級天使たちが集まってきた。
異例の数の多さだ。中級天使が群がり、それをもの珍しそうに見る天使たちがさらに周りに集まってきている。
中級天使たちは何かを調べたり、書き留めたりしていた。
上にある神界を見上げる天使たちもいる。
その周りの野次馬天使たちが口々にああだこうだと、憶測で噂を立てていた。

遠くの方から、ダンテとローザがこちらに向かって来ようとして咄嗟に隠れた。
ダンテが中級天使の一人を見つけたからだ。服装でそれが、調査関係に属している中級天使だとダンテはわかったのだ。
しかしこの時彼らは知らなかった。

大勢の中級天使や野次馬天使たちの群がりで気付かなかった。

アーシャが捕らえられたのだと勘違いをした。
中級天使がアーシャを捕らえたのだと。

その辺一帯の空間が吹き飛んでいることに気づくべきだった。
もう少し冷静に見ていればすぐに分かったことだったのに。
ダンテはとても焦っていた。

しかしローザはその後すぐに知ることとなった。
アーシャが、いや、アーシャだけでなく、
アーシャとりんごが、空間ごと吹き飛んだという事実を。


「誰が?どうしてそんなこと!何も存在自体消すなんてことある!?」
ローザは困惑していた。悲しみと、驚きで、事態を受け止められずにいた。

「・・みんな天罰って言ってるわ。」

「・・天罰?何よそれ、あの二人が何をしたっていうの・・」
ローザは顔を両手で伏せ、しゃがみ込んでしまっている。

「あ・・私も直接見たわけじゃないから。」

ローザのあまりの悲壮な状態に、ローザの友の一人、フェテネは続きを話すのを躊躇った。
「ごめん、誰もホントのことはわからないのよ、憶測で言ってるだけ。とりあえずオリベンハーブで落ち着かない?」
両手を小刻みに震わせて恐らく泣いているであろうローザをそのままには出来ず、他のものに意識を向けさせようとするフェテネ。
ローザの手はとてもか細く、繊細で白く柔らかだった。そんな手で顔を覆い、泣いているローザ。
とても一途で繊細で健気な少女のようで、ローザのそんな様子を見ていると居た堪れなくなる。
普段は笑顔いっぱいで、きっとローザは、出来うる限りの努力をして、人々に、天使たちに笑顔で元気と幸せを振り撒こうとしているのだと、
ローザの周りの天使たちはみな薄々気づいていた。
いつも笑っている。いつも。悲しみの表情や、怒りの表情など、見たことがある天使の方が少ない。
みんなの太陽。みんなの笑顔の源。みんなの中心。それがローザだった。
いつも綺麗で優しい、そして元気で明るい。それがローザだと思っていたけれど、
今、フェテネの目の前にいるローザはまるで違う。

体が崩れ落ち、弱々しい細い手で必死になって、顔を、涙を隠しながら、
それでもものすごく一生懸命、心が締め付けられるほどに一生懸命に泣いて、泣いて、泣き崩れて、
それなのにやっぱり、周りの天使に気を使い、深い悲しみにはまり込んでしまわないように、
どこかで必死に自分を制御しようとしているのがわかってしまう。
とても、名状しがたい痛ましいローザの姿がそこにあった。

「ねえ、ローザ、泣きたい時はね、ちゃんと声を出して泣いて良いの。」
ローザの小さく丸まった小刻みに震える背中にそっと手を置き、優しく囁くフェテネ。
「笑うことだけが良いことじゃないのよ。ちゃんと、悲しい時には泣いて、嬉しい時にはうんと笑いましょう。ね。
心には、悲しみや、怒りや、虚しさや、寂しさ、色んな感情が用意されているのだから、
それらを表現することは決して悪いことではない。
ローザはもっと、自分の心に素直になっていいの。

そうフェテネは続けた。


それでもローザは掠れそうな小さな声をか細い手の隙間から漏らしてただ泣いているだけだった。


―――――光が充溢する天界。
たくさんの優しいささやき声が目映い光の中に木霊し、
世界にそれは広がり、
じわじわと、ゆっくり、侵食していく。

肩を落とした者を励まして、
「大丈夫、あなたは悪くない。
また、いつだって立ち上がれる。」
古くからの友人がそんな力強いエールを贈るように、
縮こまった背中に手を置き、落胆に暮れた者を最大限に鼓舞するように
天界の光たちは、ローザに集まって、ローザを包み込む。


大勢の、大きな、多くの、目には見えないものたちが、
悲しみに暮れるもののところにやってきて
傷ついた心を包み込み、大丈夫、大丈夫、・・
そうひたすらに、囁き続ける。

あなたが再び立ち上がれるようになるまで、
私たちは、永久に、ひたすらに、
あなたに力を与え続ける。

たとえ私達のことに気付かなくても、
私たちはあなたを励まし続ける。

元気なあなたを見たい。
あなたに再び光を。
あなたに再び希望を。
あなたに再び活力を。


その光は小さすぎて誰も気付かない。
でも確かに存在する、その小さきものたちは、
一生懸命に、ただ一心に、ただ健気に、
絶望や落胆を癒そうとしているのだった。

小さな鈴のような声で泣いていたローザを、
多くのものが見守っていた。
今か今かと、再び前を向けるようになるのを、
ずっと待っていた。

フェテネもまた、我慢強く、ローザの横に座って、
彼女を見守っていた。
ローザの小刻みに震える小さな小さな背中を優しく摩りながら。


人間界では、昼が過ぎ、夜が過ぎ、また昼が過ぎ、そして新月の夜が到来していた。


そんな時、落胆していたローザのところに、彼女を呼びに天使が一人訪れる。
「ローザ、オンスェール様がお呼びです。」
低くて、淡々とした声が、重々しい空気を割いて入ってきた。

うすく溜息をついて、フェテネがローザに向かって言う。
「・・・・行けそう?」
無言で小さくローザは頷いた。

見ているだけでも痛ましいローザの姿。
今にも崩れそうな体を頼りなく起こして、
ぐちゃぐちゃになった顔を髪で隠しながら、
子鹿が初めて立つ時のような弱々しさで
ローザは迎えに来た天使の後についていった。

フェテネはその時のローザの細くて弱々しい、
真っ赤になった小さな手と顔が脳裏に焼き付いていた。
ボンドで応急的にくっつけて修復しただけの、バラバラに砕けてしまっていた陶器、
ローザの姿はまさにそんなふうだった。

フェテネは心配で堪らなかった。
もともと深奥はガラスのようなローザの心。
ふだんは活発で、気丈で、元気な彼女だけど、
過去に一度だけ、あんな姿を見たことがある。


ローザが人間界に行って帰ってこなくなった時。
随分たってから、ローザが天界に運ばれてきた時。
あの時のローザは、ふつうじゃなかった。

枯れた棒っきれのような手足に、光を失った目。
フェテネがよく知るツヤツヤな桃色のカールした髪も
その時はまるで黒ずんで干からびた根っこのようだった。

ローザは全てを拒絶していた。

ただ人間界に戻りたいと、そんなうわ言を言っていた。

いったい何があったのか、フェテネも詳しくは知らない。
だがあの時の尋常ではないローザを、嫌でも思い出してしまう。

今のローザの姿と、重なってしまう。
普段以上に細さを感じてしまうローザの頼りない後ろ姿が、
フェテネの目を捉えて離さない。

ドク、ドク、と地面の底から突き上げてくる重く、黒い焦燥と不安。

どうかこの不安が現実になりませんように。

そう、ローザを貶めた悲しみの根源かもしれない神に祈る。

天使は弱い生き物だと、誰かが言っていた。
人間もそう。世界を恨みながら神に祈る。
神を恨みながら神に祈る。

すごく大きな矛盾。悪魔のほうがそういう意味では独りで生き抜いている気がする。

悪魔は神に祈らないらしい。誰にも祈らないらしい。もともと祈る対象など持たないらしい。
祈るならば自分に祈るのだそうだ。
悪魔たちにとっては自分が支えであり、自分が神であり、自分が何よりもの中心だから。

とっても自分を大切にしている、ということなのかもしれない。

人間ならば良い生き方に見えるけれど、でも悪魔の場合はそうじゃない。
自分以外のものに対する信用の無さと、冷たさが途轍もない。
悪魔たちの生き方はクールで自分本位だ。
何時他人に殺されてもおかしくないと思っている。
みんないつも死を覚悟しながら存在している。

自分以外の者には途方もなく冷たい。
そして、それでいて、他のものの苦しみを、誰よりも知っている悪魔たち。
のた打ち回り、這いずり回り、世界を呪い、自分を呪い、全てを呪って行き着いたこの魔界。
苦しみは、誰よりも悪魔たちこそが知っている。
だから、人間を墜落させるのがこれほどまでに得意なのだ。
苦しみがわからなければ、人間たちを失墜させることなど出来はしない。

泥に塗れて尚存在する自分たちこそが、最高に素晴らしいと、悪魔たちは己に誇りを持ち生きている。
どうしようもなく世界を、宇宙を支配する神という秩序そのものに反して生きている自分たちを至高だと、そう信じている。
神が正義なのではない、己こそが正義だと、何の躊躇いもなく、悪魔たちはそう言うだろう。

悪魔たちからすると、中途半端な高いところで苦しみ喘ぐ人間ども。
そんな中途半端なところにいるから苦しい。
さっさと落ちてこい。ここまで落ちろ。そうら、俺らの地獄はそんな生半可なもんじゃねえぜ?
そこで身動き取れなくなってんならな、俺達が助けてやろう。
ここまで引き摺り下ろしてやるから、早く俺達みたいになるんだよ!

もしかしたらそれは、愛情、なのかもしれない。

悪魔たちは自分たちこそが最高に素晴らしいと信じていて、中途半端な位置にいる人間たちを、
もっと自分たちのようにしたいと思っている。
そんな地獄に人間たちが耐え切れないことも知っている。
過去に地獄に引き摺り込んだ人間たちは、みんな地獄の業火で焼け死んだ。

呻きながら死んでいった。無様で、呆気無くて、虚しい光景。

期待外れ。―人間って弱いんだな。悪魔たちはそんな人間たちの姿を見てそう実感した。

どこかで期待していたかもしれない。仲間が増えることを。
どうして期待なんかしたんだろう。

仲間がほしい?本当は、自分のことを、誰よりも、・・わかって欲しかった?


でも呆気無く崩れ去っていく人間。


ここまで辿り着いてくれない。

地獄の業火の先の先。悲鳴を上げて、呪って苦しみ憎しみ、ひと通りの悪行三昧を重ねて、
殺し、殺され、のた打ち回って行き着く場所。

この場所に来ることを、ちょっとだけ期待していた。

―――――オモシロクナイナァ。

――――――――――ホントホント。

テレビを見て文句を垂れる軽いノリで、悪魔たちがそう愚痴る。

――――――――コンドハイイタマガトレルトイイナ。
―――――ギャハハハア!ソリャ10億年カカッテモムリ!

悪魔たちの奇妙な常識。
悪魔たちは今も、いつでも、人間たちが墜落した果てにこちらに来てくれるのを、
今か今かと、待ち焦がれている。

辿り着いて、身を真っ黒に染め、黒々敷く蠢く、自分自身と対面せよ。
そう、そうなればお前も、立派な悪魔さ。


ギャハハハハハハハァア!!!!!!!!




そんな悪魔の地響きのような笑い声が微かに聞こえるか聞こえないかの人間界で、
ノルディはぱっと梅紫色の扉を開けた。
「ちょっといるの?いないの?どこ?」
いきなり声を張り上げて叫んだかと思うと、
どかどかと家中をのし歩き、まるで軍が占領しに来たかのように、
そこら中の扉という扉を勢い良く開け放った。

「ちょっと居ないじゃない!」
いきなりキレ気味のノルディ。軽く舌打ちしてひと通りヴァイオレットを探しまわった後、
リビングで派手なクッションをひと殴りして憂さ晴らしをする。

それからしばらく、だらしない格好で寝っ転がった後、
ぱっと起き上がり、数秒も経たない間に家を出て行った。

ヴァイオレットとは対照的で、見事なまでの切り替えの速さだ。










その頃、ヴァイオレットとごんべえは、人間界を彷徨っていた。
たまたま話の流れである男の話が出たのだ。
以前廃屋が何かにぶつかった時、瓦礫の下にいた男。
ひょろんとして、細長い、奇妙な男。
ヴァイオレットはもう、極楽地獄なんてどうでも良かった。
でも、ヴァイオレットは何処かに行き場を探していた。
ジルメリアに関する情報も全く得られないままだった。
そんな時ふと、あの男が言っていたことを思い出したのだ。

「極楽地獄っていえば、永遠の地のことですかね。
伝説的存在、お伽話ってやつですかな。」

―――どんなとこなんだろう?
本当にそんなものあるのかな・・?

そう半信半疑ながらもその話をごんべえにすると、
話の話題が廃屋に移った。

そしてふと、思い出す。

―――――そういえば、あの廃屋、奇妙なものがいっぱい置いてあったんだった。

ごんべえさんは、人間のニオイがするけど、なんか不思議な人だし、
何かわかったりしないかな・・。
もしくはごんべえさんの知り合いが何か知ってたり・・。


「・・・ここですか?」
ごんべえの声ではっと我に返るヴァイオレット。
「あ、そ、そうです。ここ・・」

辛うじて全壊には至っていなかったその小屋は、
辺りに瓦礫を散らしたままの姿で、2人の前に建っていた。

「ここになにか、不思議なものがいっぱいあって・・」
ヴァイオレットが先に廃屋に入りごんべえを導く。

改めて見ると、やはり奇妙なものばかり。
でもここにあった物の半分以上が瓦礫の下に埋もれてしまっていそうだ。

ヴァイオレットは真剣に埃だらけの物を手に取りながら観察していたが、
ごんべえは廃屋の中央に立ったまま、ぼうっと宙を見上げている。
そんなことには全く気づかず、ヴァイオレットはあの時見た物が無いか、ガサゴソと探していた。
何度かそこにあった物を手にとって眺めた後、床にそれを並べていると、
手元が狂い、朱色の碗がゴロゴロっとヴァイオレットの背中の方に転がっていった。
「あ、ごんべえさん、すみません・・そっちにお碗が・・・」
そう振り返った時、ごんべえはなんとも言えない優しく、不思議な表情で、廃屋を眺めていた。
その表情を見た瞬間、思わずうっとりして、ヴァイオレットはごんべえの顔を見つめていた。

―――――どうしてあんなカオができるのかな・・。
どうしてあんな優しそうな顔ができるんだろう。
どうしてあんな・・・愛おしそうな目で、ものを、見るんだろう・・・・。

ヴァイオレットはごんべえから底知れぬ優しさを感じていた。
どうしてこのヒトは・・・こんなに・・・


ヴァイオレットがごんべえに見とれていると、ごんべえがヴァイオレットに気づいた。
「あ、どうかしました?」
にっこり笑顔。やっぱりこの笑顔がごんべえさんなんだなぁ、とヴァイオレットはそう思う。
両肩をちょっぴり持ち上げて嬉しそうに篭った声で笑うヴァイオレット。

「なんかごんべえさんが気になるもの、見つかりました?」
そう尋ねてみると、眉を上にあげて、ちょっとおもしろい顔になるごんべえ。
「・・・この廃屋、何処から持って来たんでしょうね?」
「・・・・え?」
「・・・この時代にそぐわない、不思議な匂いのものばかりですね。」

ごんべえがなんだか奇妙なことを言い始めた。
ぽかーーんとちっちゃく口を開けて聞いていたヴァイオレットを見て
ごんべえは笑って、そんな感じがしただけだ、とそう付け足した。

ヴァイオレットは何時間もそこに居座って、何か手掛かりになりそうなものが無いか
ガサゴソと探し続けていた。
ごんべえはそれを手伝う気配もなく、ぼうっと、辺りを眺めてみたり、少し何かに触れてみたりそんな程度で、
ヴァイオレットは正直、思ったより頼りにならないなぁ、と心のなかで思う。

・・・そんな中、ごんべえが突然、小さな声を発した。
全く緊張感の無い声だったので、どうせ独り言か何かだろうと思っていたのだが、
ごんべえの方を向くと、ごんべえの視線の先に人影があったのだ。

ヴァイオレットは思わず隠れようとした。
こんなところに来るのはノルディしかいないと咄嗟に考えたからだ。
ぼくが何も告げずノルディの元を去ったこと、さぞかしノルディはご立腹だろうと思った。
頭にノルディの強烈な雷が落ちてきそうで、ヴァイオレットはぶるぶると震えて頭を両手で守っていた。

人影は廃屋に近づいてきた。・・というより、ごんべえがその人影に挨拶をしてしまったのだ。
(あう、もう終わりです、ノルディさんの鉄槌でぼくは天使たちに引き戻されて、自由が奪われて、またあの日常が・・)
・・つんつん。何かが頭を刺激してる。ヴァイオレットの頭を。
「ぎゃああああっっ!!!!?」
思いきり悲鳴を上げて仰け反るヴァイオレット。

見上げると2つの影が・・一つは・・・もちろんごんべえだが、
もうひとつは・・・?・・・・・??

「・・・ノルディ・・・さん、・・・・・あれ?」

ノルディを想像して見上げた先に立っていたのは、ノルディとは全く似つかない体型の人物だった。
ひょろんと細長く、奇妙な挙動の男。
―――――あれ、この人、見覚えが・・・。

「お久しゅう。」
「何か怖いことでも?」
2人が同時に喋った。ちょっと混乱気味のヴァイオレット。
確かこのひょろんとした男は、以前廃屋の瓦礫の下に埋もれてた・・あの、謎の人物。
極楽地獄のことを知っていた、明らかに挙動不審な男。
ヴァイオレットが男を前にして言葉に詰まっていると、
ごんべえと男が会話を始めた。とても他愛の無い雑談を。
食べ物に困っているのかとか、このへんに詳しいか、とか、なんかそんな話。
そして、どうして廃屋に来たかという話になった。
男の方は、無くしたものを探しに来たと言った。
ごんべえは極楽地獄の手掛かりを探しに来たことを告げた。
男は苦笑し、そんなものは無いと言った。
その後、男は廃屋の中の品物を慣れた手つきで選り分けて行く。
そこにあった物を見てぶつぶつと呟きながら。
ヴァイオレットとごんべえはしばらくそれを見守っていたが、
ヴァイオレットは男を見ていて、あることに気づく。

「あ、・・あの。」
「はいィ?なんでショ?」
「・・・まさか、この変な模様の意味、判るんじゃ?」
「うン?この文字のことですかな?」
「・・・・文字?」

男が言うには、これは古い古い文字らしい。
ここらへんに描かれてある模様はどれも、誰かが遠い昔に書き残した文字なんだとか。

ヴァイオレットはぱっと目の前が開けた気がした。
今まで閉ざされていたものが、可能性が、手掛かりが、一気に目の前に来たような気がしたのだ。
そして興奮気味に、色んな文字を男に読んでもらった。
手当たり次第にそこら中にあった物を渡していった。
あるものは他愛もない日記で、あるものは愚痴や不満、あるものは詩みたいなもの。
またあるものは、誰かに宛てた文章だった。
しかし、そのどれもが、ヴァイオレットにとって期待するような情報では無かった。
ごんべえはヴァイオレットの横で彼とは対照的に、うんと感動していたみたいだが。
段々と、その辺にあった物も読まれ尽くして、
ヴァイオレットは肩を落とし始める。
男も少しウンザリ気味だ。
それでもと、ヴァイオレットはしばらく粘ってみたが、やはり有用な手掛かりは得られなかった。
男にも疲れの色が見えていたし、今日はこれでお終いにしようと思った。
廃屋を抜け、歩きにくい瓦礫の上を、項垂れながらゆっくり歩くヴァイオレット。
その覚束無い足取りのせいで、瓦礫と瓦礫の隙間に足をすくわれた。
「あ。」
ぐきっ、と鈍い音がして、ヴァイオレットは瓦礫に足を埋めた。
斜め48度の絶妙な角度から瓦礫に滑りこみをし、後ろにいたごんべえと男が心配して駆け寄ってきた。
ヴァイオレットはうずくまったまま立ち上がらずにグジグジしている。
彼の悪い癖のひとつ。すぐしょげるのだ。そして心配されると甘えてしまう。

2人がすぐにフォローに入ったが、ヴァイオレットは中々立ち上がろうとしない。
ノルディがいたら一番嫌うであろう展開だ。
ムツッとへそを曲げてしまっているヴァイオレットにごんべえが手を近づける。
一瞬、手を差し伸べてくれたのかと思い、ヴァイオレットはぱっとごんべえの手の方を見てみると、
・・・ヴァイオレットに乗っかっていた瓦礫の中に、一つだけ、見た目の全く違う物が。
「これ、廃屋にあった物のひとつかな?」
ごんべえがそう言うと、男がそれを手にとって読み始めた。


「50年後の理想」

―――理想の世界。
全ての人が、飢餓から逃れ、
食べ物に困らず、孤独に苦しまず、諍いが無く、
肯定しあう世界。
差別がなく、偏見がなく、恐怖が無く、信頼がある世界。

病気がなく、情熱があり、未来があり、動く体がある。
人々の目は輝き、世界は活気に満ち満ちて、
あらゆる命と存在を尊重し、労る。


―――――理想の自分。
真の自分を取り戻し、悩むことなく、自身を、全てを信じられ、確信できる。
全ての人を苦しみから、地獄から、引っ張り上げて、救い出す。
どんな罵声にも傷つかず、光を見失わない存在。
未来を確信し、自分自身を確信し、嘗ての約束を果たす。
私は戻り、世界も元通りに。
そう本来の、姿に戻るだけ。

ありとあらゆる苦しみをこの世界から消す。
連鎖を消す。渦巻くあの黒い雲を消す。幾世代にわたって築き上げられてきたあの、
苦しみの連鎖を消す。


人々から偽りと仮初を取り除き、本当の安堵と幸福を。
恐怖を取り除き、生きづらさを捨て去る。
不信を取り除き、輝きに満ちた瞳を。
情熱を思い出し、活気あふれる世界を。
個性が色とりどりに輝き、至高のシンフォニーをこの世界に創造する。

私達すべての最終目的。

すべてが調和する。全ての個性が認め合い、愛しあい、調和する。
それで初めて生まれる最大最高のシンフォニー。完全調和。
渦巻く天界。
地球に生まれる楽園。

そう、それが、―――――極楽地獄。


ヴァイオレットはぼうっと、その読み上げる言葉を聞いていた。
聴覚は確かにその言葉を捉えているのに、五感は別世界に攫われたかのようになっていた。
読み上げられた言葉どおりの世界が目の前に広がり、ヴァイオレットを掠めながら流れ、そして過ぎ去っていく。
無数の粒、命からなる光り輝くものが、完全調和をなして世界に色とりどりの煌めきを木霊させるその壮大さは圧巻で、
ひとつひとつはものすごく小さいのに、その煌めき方が、調和が、とてつもなく強く美しく、はっきりと感じられ、
そしてそのひとつひとつが無限大に集約され莫大なエネルギーを世界に放つ、そんな様が目の前で繰り広げられていた。
白や金の光の渦が爆発するような大きなエネルギーとともに一瞬にして世界に広がり、浸透していく。
あまりの壮大さと莫大なエネルギーの嵐に、ヴァイオレットは我を忘れていた。

その壮大なる幻覚の響きが沈静化した後、はっと我に返ったヴァイオレット。
あたりを振り返ると、男が一人。そう、それはごんべえの姿だった。
もうひとりの男はすでに姿が見えなかった。
ヴァイオレットはまたしても、あのひょろ長い男に逃げられてしまったことをやっと認識した。

近づいたと思えば、逃げられる、求めるもの、真実、未来、希望。
ぼくはまだ、そこへ近づけてはいない。
そこへの鍵を、探している途中。

掴んだと思えば、手からするりと逃げられる。
ぼくが求めるもの。安穏とした場所。
懊悩無き世界。

ぼくが、差別されない、ぼくの居場所。
天界に存在するようで、実はいつも危ういぼくの居場所。
魔界にも存在するようで、でも実は存在しない、ぼくの居場所。

否が応でも耳にする、極楽地獄ということば。
極楽地獄は楽園?誰にとっての?

ぼくは、ぼくが存在できる、安穏の場所を築きたい。
もう、誰からも、追いかけられたり、蔑まれたり、白い目で見られたり、疎まれたり、・・・そんなのはもうたくさんだ。
ぼくは、すべての世界から逃げて、ぼくだけの居場所にたどり着くんだ。
人間界でも、魔界でも、天界でもない。どこでもない場所。







それはきっと―――――





薄暗さの中にほんのり光が残るその瓦礫の中で、
半天使は未だ見ぬ未来を模索しているのだった。


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