天と地の迫間
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薄暗い霧があたり一面を覆い隠し、ほんの30cm先も見えない暗闇が続く。 ところどころにある光が自分という姿を辛うじて留めてくれている。 空気が湿っぽい、気温も低く、風邪を引いてしまいそうな居心地の悪さ、でも、 独りで漂うには、最適な場所かもしれなかった。 「片羽ちゃん・・・。」 誰かの声が聞こえた。・・ような気がした。 視界の悪さで誰がその場にいるのかも認識できない。 しかし人ならざる者は、独特の嗅覚でその存在を認識出来た。 「ねえ、片羽ちゃんってぇば・・。」 少年の声は誰かに語りかけているようだった。 しばらく暗闇に隠れていた少年だったが、何度語りかけても一向に返事がないために、しびれを切らして光の元へと姿を見せた。 青白い光の下に、ぼやっと怪しく現れた黒い影。 「生きることを放棄した?だからそんなところにいるんだよね?」 光に反射した青白いぼやけた肌と人の気配を帯びていない青白い目。 その姿を見て思わず背筋が震え、ゾクッとする。 幽霊かと見間違わんばかりのその希薄な存在感と、亡霊を思わせる白い肌と髪の毛。 辺りを覆う霧が少年の姿をより一層怪しく映させた。 そして・・、少年の青白い瞳の先には、同じように希薄な存在感を帯びた少年の影があった。 「ヴァイオレット。結局何者にもなれなかったんだ。でもここにもキミの居場所はないでしょ。」 青白い少年は薄気味悪い笑いを零す。 「パトリ。」 対峙したもう一人の少年は初めて言葉を漏らす。 「残念なキミに残念なお知らせ。」 返答を少し待ってはみたが、対峙した少年は無言のまま青白い少年の方を見ない。 反応が返ってくるのを諦め、少年は言葉を続けようとした。 少年は敬意という名の笑みを浮かべ、こう言い放った。 「・・・キミの大事な友人が死んだよ。」 ぴくっ、っと、大きく反応を示したもう一人の少年は、形相を険しくして荒々しい言葉を投げつけた。 「なんのことだよ。」 青白の少年は無反応に続けた。 「ヴァイオレット、いや、片羽ちゃんでいっか。今まで一体何してたの?」 ヴァイオレットと呼ばれた少年は、再び沈黙を返した。 「クフフッ、キミがいない間に大変なことが起こったんだ。友人だったんでしょ?どうして助けに来なかったの。」 「誰の・・・ことを言ってるんだよ・・」 ヴァイオレットはきっと目を見開く。 ふっと青白い少年の不気味な微笑みが姿を隠し、少年が真顔に戻る。 「ジルメリア。魔界に勝手に侵入してきた天使に殺されたんだ。」 ジルメリア、それは魔界での数少ないヴァイオレットの友人であった。 ヴァイオレットは魔界での出来事を天界で語ることはほとんど無かったが、魔界にもちゃんと友人と呼べる者がいたのだ。 ジルメリアはヴァイオレットが魔界に来て最初に牙を向いた悪魔だった。 ヴァイオレットとジルメリアの乱闘は激しいものだったが、ジルメリアは彼の苦しみを少しずつ知るようになる。 魔界でもがき苦しむヴァイオレットの姿を見て、ジルメリアは次第に彼と心を通わせるようになっていた。 瀕死の時、天使の羽を毟られて片羽になった時、自分の存在に絶望した時、あらゆる時に、ジルメリアは希望の光を与えた。 悪魔とは希望の光を与えたりする存在なのであろうか? 天使にも様々な天使が存在するように、悪魔の理念や生き方も実に様々である。 人間の堕落を成し遂げそれを誇りとする者、天に歯向かう者、魔界の領域と勢力を広げたい者、力を示したい者、 この世に絶望と悲しみと嘆きを広げたい者、闇に落ち悪魔の真理を探求する者、 誰かを救いたいと願い悪魔となった者、愛というものに絶望した者、只亡者と成り果て、もがき苦しんだ末に狂気を身につけた者。 ジルメリアは深い闇の中での、真理の探究者だったのかもしれない。 悪魔という存在を問い、魔界の存在意義を問うた。 そんなジルメリアにはヴァイオレットの存在が非常に興味深く、革新的に思えた。 何かを解き明かす重大なヒントが、ヴァイオレットという存在そのものに隠されている気がしたのだ。 当時のヴァイオレットは天界でも友人がおらず、本当に孤立した存在だった。 いつどこで消えてしまうとも知れない極めて薄弱な生命力で、僅かにその存在をぼんやりと保っているに過ぎなかった。 彼にとって、ジルメリアは最初の光であり、ヴァイオレットが自分という存在を形成するための、なくてはならない初めての存在だった。 ジルメリアには、非常に長い殺戮の時代があった。悪魔には多かれ少なかれそういう時代がある。 神という存在を信じる人間たちを見て、馬鹿にしたことも、時に羨んだこともあった。 しかし神という何者なのかもわからない存在が、概念自体が多くの悪魔には存在しない。 ジルメリアはそのことに疑問を抱き始めた。 人間と悪魔は存在がもともと違うのか?人間とは何で、悪魔とは何なのだろう。 悪とは何なのだろう?生命を傷つけること、脅かし、貶め、侮辱すること、そして深い闇の中に幽閉すること。光を奪うこと。 私たちは何のために存在し、何のために生まれてきたのか? 奇しくも人間と同じ探求を、悪魔という存在の私がするようになるだなんて・・、ジルメリアはそんなことを思った。 人間が絶望のどん底にいる時、死が迫った時、皆が決まって神の名を口にする。 天使もそう。神の愛で、私たちは行動し、生き、神によってエネルギーを得るという。 それじゃあ私たちは何だというのだ。 神というわけのわからない、多分親玉みたいなもの、それと天使と人間は深いところで繋がっているように思えた。 私達のところに魔王というものは存在するが、それは単に力の頂点を極めたもの。 魔王を崇拝していない者など数多くいる。むしろ魔王を腹の底では殺そうとしている悪魔なんて数知れない。 実際に歴代魔王の交代は、暗殺か死亡によって起こっていた。 魔界とはそんなところであり、それらはごくごくアタリマエのこと、人間たちが抱く恐怖とか、悲しみとか、そういうものではない。 私たちはたった今まで横で飛んでいた悪魔が死のうが惨たらしいくらいの悲鳴を魔界中に撒き散らそうが、全くもってどうでもよかった。 人間たちの世界で、愛の反対は無関心だというのだと聞いたことがあるが、魔界の、悪魔たちの世界ではまさに無関心が普通だ。 他人には無関心だが、自分への愛情だけは深く、自分だけへの愛が故に、力をつけて魔王になる道を目指す、そんな者も多い。 人間の魂を持ってしてみれば、非常にショッキングだと思われる、あたり一面が死体の山だとか、呻き声が聞こえるとか、そんなのも普通。 だってそれが魔界であり、魔界はそんな者の行き着く楽園なのだから。 もがき苦しみ続ける者が、天界になど入ろうものなら、それこそ業火に焼かれるような苦しみを味わうことだろう。 彼らにとっては魔界がまさに楽園そのものなのであり、同士達の住まう都である。 魔界でよく見かける、腐った死体だとかカビかけの邪魔なだけの這いずることと生気を吸うことしか脳のないゾンビども。 ああいったものは放っておけば消えるような存在のはずなのに、魔界ではそれらが常にある。誰かが創り出しているのだ。 創り出すものが減ることは永遠にない。きっと。地べたはゴミ箱のような場所が多くて、とてもじゃないけど歩いてられない。 引き摺り込まれたり、刺されたり、ぬめった死体に血、道を阻むことが大好きな者が多いこの魔界では、歩くのは得策じゃない。 だからって飛ぶと、悪魔たちの標的にされる。目立つから。 みんな生き残った悪魔というのは、それなりに自分の身が守れるし、守れなければ、地べたを這いつくばってる亡者のようになるだけだろう。 悪魔として生きながら、自分の安全な生き残り方を見つけ出す。悪魔なりの知恵を身につける。 生ぬるい天界では寝ていても生きられるらしい。 過去何回か、天界の天使たちと大衝突して、めちゃめちゃに戦ったことがあるけど、 大体においてそこら辺の天使より悪魔のほうが強い。弱い悪魔はもうとっくにどうにかなっちゃっている。 過去の激戦を交えて初めて、天使たちの阿呆さ、楽観的で、そのとぼけた生ぬるさを肌で知った。 ヴァイオレットも最初はなかなか弱かった。 虫のようで、放っておけばすぐ殺されてしまいそうな、天界から遣わされて来たと言っていたけど、 天界はそんなことを言いながら本当はこいつに死んで欲しいと思ってるんじゃないかと思った。 私、ジルメリアがある時その考えをヴァイオレットに話すと、彼はひどく動揺し、泣いていた。 一番言ってはいけないことだったらしい、彼も一番それを恐れていたのだ。 天界とか、天使とかいうものが全くわからない。悪魔にも間抜けな奴はいるけど、天使の間抜けさは度を越していた。 弱々しい天使が、消されるのを承知で私に飛びかかってきたり、神のためだとかいって、平気で無謀なことをした。 でもその神とやらは守ってくれもしなければ、現れもしないらしく、天使たちは普通に無残に殺されていった。 もしかして神というやつは、悪魔よりも悪魔らしい、究極の魔王なのだろうか? 天使たちや人間たちに神という存在を信じ込まさせて、神のためという名目で戦わせる。 悪魔は人のために戦うなんてことも無ければ、自分が一番可愛いと思ってる悪魔が多い。無茶な戦いなどはじめからしない。 天使どもを見ているといろんなところでおかしいと思う。信じがたい。 皮肉なことに、ある意味悪魔のほうが自分たちの命を大事にしている。 人間界の宗教でも、命を大事にとかいう考えがあるらしい、他人を大事にしなければならないとか。 そして、自分の命を軽んじ、弄ぶようにあっけなく自分の命を捨て去る。何て滑稽で、馬鹿馬鹿しい様。 やはり神という存在は、悪魔よりも悪魔らしい、魔王よりもさらにウワテの真の魔王なんじゃないか。 真の魔王ってのは、真の悪を極めた者は、魔界にじゃなく、実は天界に存在する。 この世はとっても皮肉に、わかりにくく、何層にも真実と虚構とを交互に織り交ぜて、複雑に作ってある。 あはは!面白い世界!なんて面白い世界に、私はいるのかしら! そんなジルメリアの独白を、ヴァイオレットは路頭に迷った際に魔界に忍び込んでいつも聞いていた。 彼女のそれは、どこか真実めいていて、でもどこか虚構で、どこか別の世界の話をしているようで、ちょっと面白おかしかった。 彼女自身も面白可笑しく話していた。僕は真実とかはどうでもよかった。 ただ僕のそばに誰かがいて、なにか話しかけたりしてくれる。そんな存在がいるだけで、ぼくの存在がここに在るような気がしたんだ。 彼女がいて、だから僕は存在する。 彼女、ジルメリアは僕のraison d'etre(存在理由)そのものだったんだ。 「天使がジルメリアを殺した?・・そんなことするはずないだろ・・!!」 彼らしからぬ、挑発的で厳しい口調。ヴァイオレットはあのジルメリアが、彼の中で大きな大きな、 そして何よりも深い存在になっていたジルメリアが天使に殺されたなど、信じられるはずがなかった。 「何言ってんの。」 ヴァイオレットの頑なな態度が滑稽に映ったのか、青白い悪魔、パトリは可笑しさで声を震わせた。 パトリはアハハハッ!っと両肩を揺さぶらせて笑い、お腹を押さえた。 「天使なんだから、悪魔を殺して当然じゃないか、今更何いってんの?」 こいつの言い方はいちいち癇に障る。ヴァイオレットは表情をよりいっそう強張らせる。 今にも飛びかからんばかりの尖い勢いを秘めたヴァイオレットに気づき、パトリはやや声の高ぶりを抑え、落ち着いた口調で続けた。 「ああー、怒んないで。ホントのことでしょ?」 やはり癇に障るらしい、ヴァイオレットの表情には怒りの感情が窺える。 「待って待って、別に挑発しに来たんでもないんだから。まーさ、魔界と天界の均衡を天界側から破るなんて、流石の僕も呆れたけど。」 「魔界に派遣された天使が悪魔を殺すなんてあり得ません!だって上級天使たちは今の魔界と天界の均衡を崩すことを厳しく禁止しているんですよ!」 「じゃあさ、なんなの?ジルメリアは気まぐれで死んだって?」 またムッとするヴァイオレット。どうもパトリは無意識のうちに人の感情を逆撫でしてしまう節があるらしい。 場の雰囲気が再び気まずくなったので、パトリはとりあえず頭をぽりぽりと掻いてみる。 そんなパトリを無視し、ヴァイオレットはくるっと背を向けた。 「ちょっ、いきなりどこ行くの。」 「ついて来ないでください。」 「だーぁからどこ行くのって。」 悪魔ご自慢の黒い翼をはためかせ、空中からヴァイオレットの先回りをするパトリ。 「・・魔界に決まってるでしょ!」 こんなヤツにわざわざ行き先を話す必要などない。話したらどうせ、またあれこれと癇に障ることを言われるだけだ。 そう思いつつも、パトリの素早い先回りにウンザリしたヴァイオレットは、思わず行き先が口をついて出てしまった。 「あー?はいはい?魔界っていいましたか、オニイサン?」 相変わらずフザけた調子で返すパトリ。正直、イラつく。 「どっか行ってください!どこかに消えろ!お前なんて信じてない。ジルメリアだって生きてる。」 「何その言い草~、ジルメリアのこと教えてあげたの誰?僕ね?」 悪魔には何故かウザったい人物が多い。趣味は嫌がらせ。そんな悪魔も少なくないからだろうか。 「大体さ~ァ、片羽くん魔界に帰れると思ってる?」 そう言われた瞬間、さっと振り返るヴァイオレット。 「・・どういうことだよ。」 「魔界にも、天界にも、人間界にも居場所なんてない可哀想なオニイサン。くふふふ!」 バシッ! 笑い声が出た瞬間電撃のような何かがパトリの頬を掠めた。 ヴァイオレットの右手には魔法を発動させた跡が・・。怒りで思わず攻撃をしてしまったのだ。 「あー・・っとねぇ、魔界ゲートが閉じちゃって~、僕も帰れないの。」 そんなヴァイオレットの表情を見て嬉しそうに話すパトリ。 「・・それって・・、」 「片羽くん開けてよ。」 「なんで僕が・・!」 「天使のバッジ、持ってるんでしょ?」 「あっ・・これ、返すの忘れてた・・」 そういえば人間界にしばらくいるように言われた時、バッジを返上しておくよう言われたのだった。 バッジというよりこれは、魔界で生き延びるためのお守りみたいなもので、 上級天使直々の護りの魔法がかかった紋章が刻まれているのだ。 「でもこんなバッジがあるからなんだって言うんですか。」 「それかなり強い魔法かかってんじゃん。」 「そう・・なんですか?」 「あっは!もしかしてわっかんないの?呆れるね~ぇ。ゲスどもがアンタに近づかなくなったのってただのバッジのせいなのに!」 「う・・なんのことですか・・」 「下級悪魔のことだよ、片羽ちゃんに近づかなくなったでしょ、バッジつけてくるようになってから。」 ・・・そうだったんだ、僕が襲われなくなったのは、いいえ、襲われる回数が急に減ったのは・・・これのお陰。 確かにすごい護りの力があって、これを近づけると悪魔たちがひどく嫌な顔をするのは知っている。 ・・ぼくもちょっとは強くなったから襲われなくなったのかと思っていたのに・・全然ちがった。 「それ貸して。」 「いやです。」 「ねえじゃ、魔界ゲートとか開けてみようよ!」 「どうやってですか。」 「んーー・・・、たとえば。人間界に我が物顔で入ってくるふてぶてしい天使どもが通る道、 天界ゲートを潰そう!んで魔界ゲートを代わりに作ろっ!」 ものすごく子供っぽい無邪気な調子で嬉しそうにパトリは言う。 「そんなことしたらぼく、天界に帰れなくなるじゃないですか。」 「え、もう帰れないじゃん。逃げてきたんでしょ?やっぱ居場所がなくて。なのに帰る気だったの?」 「う・・、い、一時的に人間界にいるよう言われただけです!だからすぐ戻れます!」 僕は今、心の声と反対のことを言ってる。本当は天界から追放されたんじゃないかと思ってる。厄介払いみたいに。 それにもう天界に僕の居場所なんてないとも思ってて・・、でも、もし、この悪魔の言うような、 天界ゲートを壊して、魔界ゲートを作るだなんて、そんなことしたら・・・・、 そんなことしたら僕は完全に天界と縁を切らないといけなくなるじゃないか。 今まで天使になるために、みんなと、ダンテと、ローザ先輩と一緒にいるためだけに耐えてきた天使になるための浄化の儀式も、 天界で認められるために、魔界も人間界も、他の異世界もいっぱい行き来して、時にはボロボロになって、死にかけたりして。 でもそれは全部、全部天使になるためだったのに。天使として、ぼくは天界で生きる覚悟を決めたからなのに。 ・・それが全部無駄になるなんて、それだけはいやだ。 確かにノルディさんのところも抜け出してきた。逃げてきたよ。この悪魔の言うとおりかも。 でも、僕は天界を捨てたんじゃない。 僕は怖いだけで・・ううん、ただ拗ねているだけなのかな。 でももう帰りたくない、僕は真実が知りたくない。 でもだからって、天界との関係を完全に切るだなんて僕には出来ない。 ああ、なんて中途半端。意味がわからないってよくダンテに言われてた。 中途半端な奴だってよく言われた。 存在だけじゃなくて、性格まで中途半端な奴だって・・。 ・・いいよ、それで。ぼくは何も知りたくはないし、もう見たくもないんだ。 何も知らなくていいから、これ以上ぼくを傷つけないで。 |
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