婀娜(あだ)月夜

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二日前、臥待月の夜空で妙な奇声が木霊していた。
目を剥いた悪霊が暴れたかのような痕跡があちらこちらにあり、
小石には鮮血が残っていた。

最初は甲高い奇声で、徐々に地響きのような声に変わっていく。
麓の村人は、亡霊か祟りの類だと、窓を固く閉ざし、心張り棒を宛がった。

奇声は悲鳴のようになり、そして臥待月が南に輝く頃、それは収まった。





女は裸足のまま地面に突っ伏していた。
辛うじて残存する布地だったものは、所々糸となり、
女の黒々とした汚れた肌に纏わりつく。

足の裏は青黒く濁り、女の血流が潺潺(せんせん)と流れてはいないことを物語っている。
指には無数の傷があり、爪先は砂利のように歪な線を描いている。

女からは僅かに生気が感じられたが、皮膚の色は、躯へと向かう只中のようだった。



男は酒に酔っていた。
いつものように一張羅の召し物を備え、豪華絢爛な装飾品を纏いながら、
夜道をフラフラと歩いていた。
服が木の枝に引っかかり、貴石が埋め込まれたボタンが外れてしまったのにも、全く気にかける様子がない。
貧乏人が10年は暮らせるであろう、そのボタンは、木の枝に置き去りとなった。


男は何かを踏んだ。
それはなにか柔らかいものだったため、男は丁度いいと思い、そこで小便をしようとした。
男は狙いを定めようとその柔らかいものを見て、首を傾げた。

「俺は山にいるはずなのに、なんだ、この草は?」


そう言って掴んだ草は、複雑に絡まり合い、乾いた泥砂がそれを茶色く染めていた。
だが違和感があった。
その草は、えらく長い。そして、一部の箇所から集中的に群生している。

それを何度か引っ張ったりしているうちに、男は青ざめた。

ちょうど雲が月から退いたときだった。
草の生え際をよくよく見てみると、人の顔のようなものを見たからだ。

うぎゃー!!、と、拍子の抜けた声をあげた男は間抜けな格好でその場を立ち去ろうとした。

しかし、すぐに男は気づいた。

その人間に、体温がまだあることに。


男は、これは何かに使えそうだと思い、この人間を、家に運ぶことにした。
これが男であったなら、とっとと用を足して、その場をあとにしたに違いなかった。
そのうえ面白半分で小便を男にかけていたかもしれない。

男はそういう人間であった。


男は使いの者を呼び、女を家に運ばせた。
男は別の使いの者に、籠を用意させ、自分は何一つ労することなく女を屋敷に運び込ませた。

5日かけて、
女は使いの者の手厚い看護を受け、意識を取り戻した。
そして全身を綺麗にしてやり、食事を施し、身なりを整えさせた。

男は深夜に粧した女どもに支えられて帰宅した。
遊び惚けた帰り道で、転んだため、額には痣が出来ていた。
そんな男を優しく、女どもは介抱していた。

男は山で拾った女のことなどとうの昔に忘れており、
使いの者に声をかけられ、邪険にあしらおうとしたところ、先日助けた女が回復したという言葉が耳に入ってきた。


ゴミのように汚い女だったが、何かの足しにはなるかも知れぬと思っていた。
女など、腐るほどいるというのに、どうして男はこのゴミのような女を持って帰ったのか。
恩を売ってやろうとも思っていたし、単純に興味というのもあったが。
本当のところ、どうして侍従を呼んでまでこの女を持って帰らせたのかは、男にもよくわからなかった。


下衆な好奇心を引っ提げ、男はだらしなく右足で戸を横に蹴り上げた。
妙な摩擦とともに、戸は少し開き、それをすかさず侍従が支え、戸を開け直した。

男はあの特徴的な泥に塗れた茶色の長い髪を探す。

・・・しかしそれはどこにもなかった。

かぐや姫を思わせる、艷やかな長い湿気を帯びた細い黒髪。
凛とした顔立ち。吸い込まれるような瞳。

男はひと目で、その女の虜となった。


邪魔者は出て行けと、すぐに周りのものを追い出した。

そして男は、自分の手柄を語った。

「あまりに可愛そうだと思い、居ても立っても居られなくてね!
そうして山を駆け下りて、お前を助けたんだ。俺が!

つきっきりで看病したお陰で、すっかり元気になったようだね!

・・・ところで何故あのような山道で倒れていたのだい?」


女は凛とした表情を保ったまま答えない。

男は女の感情が読めず、自分の話を語りだした。

「俺には何人もの女がいてね、放っておいてくれないんだ。
どうしても俺が必要なんだ。みんな俺が助けたからね!
いまではみな元気に屋敷で働いているよ。
そうだ、お前もどうだ?ここに居ればあんな気味の悪い山道で倒れることなんてない!
ずっとここに居ればいい!」

それを聞いて女の瞳の奥が、僅かに動いた気がした。
悲しみ、のようなものが、その奥に感じ取れた気がした。


男はわけがわからず、女に尋ねた。

「どうしたんだい?腹でも壊したのかい?どこか痛むのかい?
何なら俺が見てあげよう、俺は医学も嗜んでいるのでね!」

女は男の手をサッと、交わして、こう言った。

「この家は、10年後、草露となります。」

男はわけがわからず、何か別の話に切り替えようとする。

「繁栄があれば、同じ量だけの、衰退が待っているのです。
今のままでは間に合わない。」

男はしばらく考えてこう切り出した。

「なんだ、お前は、巫女か何かか?どうしてそんなことがわかる?」

「わたしを、助けてくださったことは、とても感謝しております、でも。
・・・あなたの心根は、すっかり繁栄に濁らされています。」

その次の瞬間、女の目つきが変わった。


「召使いは、道具ではありません。
女どもは、あなたの性の、処理具ではありません。あなたのしてきたことも、
今なさっていることも、必ず全ては明るみに出ます。


・・・・そして、」


女は何かを言いかけて、口を噤んだ。



「わたしのことを、覚えていらっしゃいますか?」


・・・・

男は呆然と女を見ていた。

覚えている?女など腐るほどいるし、そんな一人一人を覚えているはずもないが、

いや、昔捨てた女か?昔ひどい目にあわせてしまった女か?

よりによってこの眼の前の美女が、俺のことを知っていたなどとは、

せっかく取り繕っていたのが無意味だったではないか。




そう思案しながら、あの女だ、と思い、言ってみるも、女は首を横に振る。

また別の女を思い出し、そいつだと思って言ってみるも、それも違った。

それを数回繰り返しているうちに、女がみるみる呆れていくのに気づき、

男は慌てて弁明をする。




男は頭を抱えていた。稀に見る美女を、逃したくはない。
だが過去にしでかしたことなど、まして女のことなど、覚えているはずがない。


女は悲しそうな瞳をして男から視線をそらした。
この場から立ち去ろうとする女を慌てて男が引き止める。

「ま、まってくれ、今、今思い出す!!」

男は自分を繕うために、たくさんのボロを女の前で披露していく。


「昔、私に、衣を返してくれましたね。」

女がしびれを切らしてその言葉を漏らすと、はっと男は真面目な表情に戻る。

それはどうしてもどうしても手に入れたかった女であった。
が、天女だったため、その女は天に帰ってしまった。

その昔、女に問われた。

誰も知るはずはないと思ってやったことは、いずれ全てが知るところとなる。
あなたはいつまで、その衣を納屋にしまっておく気ですか、と。

男は背筋をゾクリとさせた。
女の目は全てを見通しているかのようだった。
人間離れしたその神々しく美しい瞳の奥で、男の心は揺れていた。

結局最後まで女を帰したくはなかったが、どうすることも出来ず、衣を女に返し、女は天へと昇っていった。


「俺に会いに来てくれたのか!?俺のことが忘れられなかったのか!」

男は歓喜に満ちていた。

「理由はお伝え出来ませんが、今の私は拙い人の身でございます。
わたしはあなたが、少しでも、誠に近い生き方をしてくれることを願っておりました。
・・ですが、もう手遅れ、この家は、10年後に、滅びの道にあるのです。」

「ど、どうしたらいいんだ!?」

もう女遊びができなくなる!男の頭に真っ先に浮かんだのはそれだった。

それを見透かしているかのように、また女の顔が曇った。
それを察して男は素早く繕いの弁を述べる。

「・・・何かを手に入れるには、何かを手放さねばなりません。
全ては何かと引き換えで、そして、得れば、必ず失うのがこの世の理」


「衰退は必然とでも言いたいのか!?」

「あなたが大切なことを思い出していてくださっていたのなら、こんなことにはならなかった・・。」
女は悲しそうに目を伏せた。

男は女の言葉の意図がつかめなかった。


女はそのまま、一言だけ言い残して、姿を消した。


男は女を追いかけたが、木に邪魔されて、その木をくぐると、どこにも姿は無かった。


10年後、家は滅びた。

男が過去にしでかしたことが、一つ一つ、明るみに出たのだった。

捻れに捻じれ、人間たちは罪のなすりつけ合いをした。

繕いがうまかった男は、もはや、弁明の言葉すら出ぬほどに、落ちぶれていた。

どんなに追い詰められても、責め立てられても、舌先三寸で交わしてきた。
綺麗事をいい、理想的な人物像を装うのが得意だった。


その時もそれは変わらなかったが、腹の底は闇に捻れていた。

「人間なんぞ誰も信じられない、女なぞ糞だ。」

男は腹の底でそうつぶやき続けながら、

「話し合えばわかる、俺は君のことを信じているからね、
今だって君のことを愛しているよ!」

そのような美辞麗句を言い続けては見たが、物事はどんどん悪い方へと向かっていく。


最後に罪のなすりつけあいと利権問題に破れ、
男は裸一貫で山を彷徨うことになった。


全てを失った男は、自暴自棄になり、崖から身を投げようと思い立った。

身を投げられる場所を探しているうちに、見覚えのある景色を捉えはっとする。


「ここは・・・!」

何かを思い出したと同時に、辺りに芳しい気配が漂っているのに気づいた。



「・・・・おめでとうございます。」


男の、目の前には天女が姿を表していた。


「あなたは全ての過去の罪から逃れ、死を選ばれるおつもりですか?」

「なにを今更、結果は見えてるだろ、どうせ生きてたって何があるってんだ!」

「あなたが辱めた女性達は、その苦しみと屈辱に耐えながら、生き続けて来たのですよ?」

「知ったことか!」


「逃げても、死んでも、それは追いかけてきます。そんなことは意味がないのです。
どうして何人もの女とありあまる富を授かれたのか、その意味を考えたことがありますか?」


男は黙りこくった。


「正と負は常に同じ。あなたが今までに得たくても得られなかったものは、
全てを失ったことと引き換えにして、これから手に入れることができるのです。」

「俺には、もう何もないんだぞ!召使いもいない、着るものだってこれしかない、食い物も金もない!」

「おめでとうございます。やっと、あなたは、本物の心を手に入れることが出来ますね。」



女は最後にそう言って、男に抱擁をした。


男がなんとも心地の良い気持ちに浸っていると、気がつけばそこには、砂利の地面だけが存在していた。

男がそこからどんな人生を歩んでいったのかは、誰も知るはずがなかった。



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